何でも雑記
免疫力について考えよう
感染症に向き合う時、最重要とも思える免疫力について考えておかなければなりません。
今後のためにも、免疫力の高いカラダを作るよう心がけましょう!!
<寝不足やストレスは免疫力を低下させる>
ウイルスや細菌と戦いカラダを守る機能を「免疫」と呼び、「自然免疫」と「獲得免疫」の2つに大別できます。
まず、体内に侵入してきた病原体に最初に反応するのが「自然免疫」で、休むことなく体内をパトロールし、体内に病原体が入ったことを「獲得免疫」に知らせます。
次に「獲得免疫」ですが、この免疫は病原体との戦いを積み重ね、経験値を高めていくタイプの免疫力。
「獲得免疫」の防御作用は強力ですが、初めて出会った病原体に対して有効性を発揮するまでには少し時間がかかります。
日ごろから「自然免疫」を高めておくと、警報を受けた「獲得免疫」も素早く戦え、免疫力全体が高まると考えられています。
<免疫力の高いカラダを作ろう>
「自然免疫」力を高めるには、どのような生活を心がければよいのでしょう。
①規則正しい食生活
体内の免疫細胞の60~70%は腸内に存在すると言われます。
免疫力アップのカギは腸内環境を整えることにあります。
腸内細菌を増やすことができるのは発酵食品です。
また、免疫細胞を作るタンパク質をしっかり摂るように心がけましょう。
(免疫力をつける食べ物)
ヨーグルト、チーズ、漬物、味噌、納豆などの発酵食品
野菜、果物、肉類、魚類、卵、大豆
②充分な睡眠
免疫力に必要な物質は睡眠中に作られます。
充分な睡眠時間と質のよい睡眠が、免疫力の向上には欠かせません。
起床したら朝日をしっかり浴びることも大切です。
③適度な運動
免疫力を高めるには有酸素運動が効果的と言われています。
ジョギング、ウォーキング、サイクリング、水泳などをゆっくりペースで20分以上行いましょう。
④ストレスフリーを心がける
ストレスや疲労は免疫力を低下させる大きな要因です。
疲れているときは無理をせず、しっかり休むこと。
一日の疲れをとるために、湯船に浸かることもオススメです。
これからも新しい感染症に罹らないよう、免疫力を高める生活を心がけましょう!!
日本は100年前のパンデミックをどう乗り越えたのか?
1918年「スペイン風邪」が日本に上陸
当時、日本の報道でのスペイン風邪の俗称は「流行性感冒」である。
日本に於けるスペイン風邪流行は「前流行」と「後流行」の二波に分かれるという。
「前流行」は1918年の感染拡大。「後流行」は1919年の感染拡大である。
どちらも同じ型のウイルスが原因であったが、現在の研究では「後流行」の方が致死率が高く、この二つの流行の間にウイルスに変異が生じた可能性もあるという。
このスペイン風邪によって、最終的に当時の日本内地の0.8%強に当たる45万人が死亡した。
・「スペイン風邪」の凄惨な被害
「前流行」と「後流行」の二波による日本でのスペイン風邪の大流行は、各地で凄惨な被害をもたらした。
<東京朝日新聞>
発病後直肺炎を併発するので死亡者は著しく増加し、各病院は満杯となり、新たな「入院は皆お断り」の始末であった。
<岩手県盛岡市>
当地を襲った流行性感冒は、市内の各商店、工業を休業に追いやり、多数の児童の欠席を見たため、学校の休校を招いた。
厨川小学校で死者を出し、さらに岩手日報では「罹患者2万を超ゆ 各方面の打撃激甚なり 全市困惑の極みに達す」との見出し
・「スペイン風邪」に当時の政府や自治体はどう対処したのか
さて、肝心なのは当時のパンデミックに日本政府や自治体がどう対応したかである。
結論から言えば、様々な対処を行ったが、根本的には無策だった。
なぜならスペイン風邪の病原体であるウイルスは、当時の光学顕微鏡で見ることが出来なかったからだ。
人類がこのスペイン風邪のウイルスを分離することに成功したのは、流行が終わって15年後であった。
当時の研究者や医師らは、このパンデミックの原因を「細菌」だと考えていたが、実際にはウイルスであった。
当時の人類は、まだウイルスに対し全くの無力だったのである。
それでも、政府や自治体が手をこまねいたわけではない。
今度は内務省を中心に当時のパンデミックに対し、公的機関がどう対処していくのかを見てみよう。
1919年1月、内務省衛生局は一般向けに「流行性感冒予防心得」を出し、一般民衆にスペイン風邪への対処を大々的に呼びかけている。
驚くべきことに、当時の人々の、未知なる伝染病への対処は、現代の新型コロナ禍における一般的な対処・予防法と驚くほど酷似している。
以下抜粋。
<どうやって伝染するか>
はやりかぜは主に人から人に伝染する病気である。
かかった人が咳やくしゃみをすると細かな泡沫が周囲に吹き飛ばされ、それを吸い込んだものはこの病にかかる。
<かからぬには>
①病人または病人らしい者、咳する者に近寄ってはならぬ
②たくさん人の集まっているところに立ち入るな
③人の集まっている場所、電車、汽車などの内では必ずマスクをかけ、それでなくば鼻、口を「ハンカチ」手ぬぐいなどで軽く覆いなさい
<かかったなら>
①かぜをひいたなと思ったらすぐに寝床に潜り込み医師を呼べ
②病人の部屋はなるべく別にし、看護人の他はその部屋に入れてはならぬ
③治ったと思っても医師の許しがあるまで外に出るな
基本的には「マスク着用」「患者の隔離」など現在の新型コロナ禍に対する対処法と同様の認識を当時の政府が持っていたことが分かる。
現在の新型コロナ禍と全く似ていて、マスクの生産が需要に追い付かなかったという。
・100年前も全面休校
各自治体の動きはどうだったか。
とりわけ被害が激甚だった神戸市では、市内の幼稚園、小学校、中学校等の全面休校を決めた。
1919年には愛媛県が県として「予防心得」を出した。
人ごみに出ない、マスクを着用する、うがいの励行、身体弱者はとりわけ注意することなど。
学校の休校や人ごみの禁忌など、これまた現在の状態と重複する部分が多い。
そしてこれもまた現在と同じように、各地での集会、興行、力士の巡業、活劇などは続々中止か、または閉鎖されていった。
・パンデミックの終息
このようにして、日本各地で猛威を振るったスペイン風邪は、1920年が過ぎると自然に鎮静化した。
なぜか?
それはスペイン風邪を引き起こしたH1N1型ウイルスが、日本の隅々にまで拡大し、もはやそれ以上感染が拡大する限界を迎えたからだ。
そしてスペイン風邪にかかり、生き残った人々が免疫抗体を獲得したからである。
ヒト・モノが航空機という、船舶よりも何十倍も速い速度で移動できるようになった現在、新型ウイルスの伝播の速度はスペイン風邪当時とは比較にならないだろう。
このような状況を鑑みると、100年前のパンデミックと現在で採るべき方針はあまり変わらないように思える。
すなわちウイルスの猛威に対しては防衛的な姿勢を貫き、じっと私たちの免疫がウイルスに打ち勝つのを待つ。
実際にスペイン風邪はそのようにして終息している。
・100年前もデマや流言飛語
スペイン風邪当時の日本でもデマや流言飛語が生まれたが、現在ですらも「60℃近いお湯を飲めば予防になる」などの根拠なき民間信仰が出回ってしているが、人間の恐怖の心理は時代を超えて共通しており、当時も様々な混乱が起こった。
人間の心理は、100年を経てもあまり進歩がないという側面をもさらけ出しているように思える。
どうあれ、私たちはスペイン風邪を乗り越えていま生きている。
デマや流言飛語に惑わされず、私たちは常に過去から学び、「スペイン風邪から100年」という節目に現出したパンデミックに落ち着いて対応すべきではないか。
身近で活気のあったお店が急に閉められていた・・・
狭山ヶ丘駅前に、中央フラワーというこじんまりした生花店があるんです。
活気があって綺麗でいい香りのするこのお店の脇を通って行き帰りしていました。
今日の帰宅時にお店の中が見えたんですが、がらんとしてほとんど片付けられていました・・・
この時期急にというのは、今回の件の影響だと思ってしまいます。
そして、このお店の近く、何回か焼き鳥を買ったお店かぶら屋まで。
どちらのお店も、自分はほとんど利用していませんでした。
でも、いつも、明るく元気な接客の様子や声が聞こえてきていたんですよ。
毎日ほんの一瞬でいいから、明るく元気に頑張っている姿を見せてくれるだけでいいんです・・・!
もう行ってしまうんですか?
今回の件が落ち着いても、もう帰ってこないんですか?
タラス・ブーリバ、マテオ・ファルコーネ
ベルリンでも例にもれず、通常の演奏会は中止になっていて、無観客演奏の配信を行っているようです。
先日、キリル・ペトレンコの指揮でマーラーの第4交響曲(室内編成版)がデジタルコンサートホールで配信されていました。
毎週土曜日には、Webでベルリンフィルアワーという高音質配信をやってくれるんですが、
前回のアーカイブの配信では、チェコのヤクブ・フルシャが指揮したヤナーチェクの狂詩曲「タラスブーリバ」を聴くことが出来ました。
自分はLPレコード時代からこの曲が大好きでした。
コサック出身のタラスブーリバの物語が標題になっています。
タラスの次男アンドレイは敵方の女性に恋してしまい、その女性を救い出すために敵国ポーランド軍に加担してしまう。
そして自分の寝返りを知った父親と接戦し、父の手にかかり落命してしまう。
長男オスタップは、弟アンドレイの死に悲嘆するうちに戦場でポーランド軍の捕虜になってしまう。
タラスブーリバは変装してポーランドに潜入するが、拷問されている息子の最期を目の当たりにし、息子に向かって思わず叫ぶ。父の叫びと同時に息子は命を絶たれてしてしまう。
ポーランドを脱出したタラスブーリバは、死に物狂いでポーランド中を転々と弔い合戦する。
しかしついにタラスブーリバは捕らえられてしまう。
ポーランド軍によってタラスが火刑に処される中、「ロシア人の信仰心と魂は決して滅びることはない!」と叫び絶命する・・・
終曲はタラスブーリバの雄叫びの声にあふれているが、最終部は静かなパッセージがタラスブーリバの捕縛を描写する。
彼の最後の叫びは金管楽器とオルガンの煽情的なパッセージで描写され、鳴り響く鐘と誇らしげなエピローグによって曲は閉じられる。
この感動的なヤナーチェクの曲については、別の機会にまた紹介したいと思います!
久しぶりにこの曲と内容の感慨にふけっているうちに、はっと思い出した物語があります。
小学校時代に読んだメリメの短編小説「マテオファルコーネ」です。
短い中に、これ以上ない強烈なラストシーンが描かれています。
これが、学研の少年少女世界文学全集の中に入っていたんです・・・!
或る日、マテオファルコーネは妻と仕事に出かけ、10歳の息子フォルチュナトが留守番に残されました。
そこにお尋ね者が憲兵に追われて逃げてきました。
かくまってくれと頼まれたフォルチュナトは、お尋ね者を干し草の中に隠してやります。
そこに憲兵たちが追いついて来て、犯人はどこだと問い詰めます。
しかし、フォルチュナトは脅しには少しも動じません。
そこで憲兵の曹長は、高価な銀時計を見せてフォルチュナトを買収しようとします。
まだ10歳のフォルチュナトはその銀時計が欲しくてたまらず、とうとうお尋ね者の隠れ場所を教えてしまいます。
帰って来たマテオファルコーネは、息子の持っている銀時計を見て全てを悟ります。
そして妻に「おい、この子は俺の子か?!」と尋ねます。
マテオは息子を近くの空き地に連れて行き、大きな穴を掘らせ、その後お祈りをしろと言います。
息子は知っている限りのお祈りをします。
そして、父親に許しを請い嘆願します。
「お父さん! ごめんなさい! 殺さないで!」
マテオは息子に目を閉じて手を合わせるように命じ、自分は十字を切ります。
息子に銃口を向け「神のご加護がありますように・・・」とつぶやきます。
フォルチュナトはあらん限りの力を振り絞って父親の足元に突進します。
銃口が火を噴き、フォルチュナトは動かなくなります・・・
即死でした・・・
この物語を思い出してから、数日この内容が頭から離れません。
そして、この年になってからの自分の想いは、やはり昔とは違っていました。
今度、その自分の想いを書いてみようと思っています。
(自分が昔読んだ時の挿絵はまさにこれでした・・・!)
暑い中汗ビショで気持ち良かったけど、腹ペコに
今日も作業があるので、歩いて通勤です。
今年の通勤路は短い区間ですが林の中を通るので、涼しくておいしい空気、上の方から届いてくる野鳥の声などを感じながら歩けるんです!
すごく忙しかった時は、このようなプレゼントを有り難いなんて感じる余裕は無かったですね・・・
今年初めて出会った古本屋さんは、5月末まで開店準備のようでした。
中古ピアノを扱うお店では、コロナ対策を入念にしながら少人数ずつ接客を受け付けているようでした。
今日の職場の仕事も体を動かす作業で気が晴れました!
そして、帰宅時の歩きの道中は夏のような暑さ!
喉も乾いたけど腹ペコにもなりました! 登山だとシャリバテって言うんですよ。
とにかく自分はいまだに大食いで困っています。(笑)
暑かったせいでしょう。こんにゃく麺が無性に食べたくなりました!
家に着いて水飲んだ後、早速こんにゃく麺2人前ペロリと食べてしまいました!
麺つゆを豆乳で割るこの食べ方、おすすめです!
カロリーは?
大丈夫! こんにゃくだから麺のカロリーはゼロです!
その後の夜食ですか?
ええ、しっかりと沢山食べましたよ!(笑)
PS.
今夜と明朝は気温がかなり下がります!(秩父は10℃を切るそうです)
窓開けて寝たりしないように!
特に、今体調を崩してはいけませんからね!!
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