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何でも雑記

納屋に積んだままの枝と落ち葉の処理

 今日の作業時間は半日しかありません。

納屋に置きっ放しの栗の木の枝と葉を何とか処理しないといけません。

枝にまだ付いている枯葉を取り除いて、枯葉は製作中のドラム缶焼却炉で燃やそうと思います。

ドラム缶に合うロストル(焼却炉下に置いて燃焼用空気の通り道を作る網)も何とか安価に手に入りそうですし、ドラム缶本体を切ることも出来そうです。

枯葉は発酵させてたい肥にするか迷ったんですが、このような発酵ではメタンガスが発生するんです。

メタンガスにも温室効果があり、何と二酸化炭素の25倍もあるんですね!

このデータだけでは結果的にどうなのかがはっきりしないんですが、今のところは枯葉は燃やして、出来た灰を肥料にすることにしました。

枝の方は薪ストーブの燃料にするのがいいだろうと考えています。

今作業している地域では、落ち葉も伐採した枝も各家庭単位で処理しているんですね。

写真に撮ると、これだけ?って感じですが、この枝と葉を全部処理するには丸3日でも終わらないと思っています。

この枝ですが、短く切るにはどうやれば効率的だと思いますか?

最初は全部ハンディー電動ノコギリで切ろうと思っていました。

今日作業してみてだいたい分かったんですが、まずは出来るだけ手で折る!

太くて手で折れない枝は、手引きのノコギリで切る。

これで4時間近く作業を続けました。

次回は、手折りと電動ノコギリでやってみようと思っています!

今日は1日中雨で作業できませんでした・・・

 今日は1日中強い雨が続いていました。

予定していた作業は全部中止・・・

納屋の中の作業が出来なくはなかったんですが、工具の忘れ物もあったため、仕事は明日やることにしました。

そんな中、これだけまとまった雨が降っていたので、広範囲に雨漏りを点検し、雨どいの詰まりを取り除く掃除はしておきました!

特に雨どいの弱い部分は、大雨の時でないと分からないんですね。

例えば、雨どいがこんな状態なら、天気がいい時に早めに掃除しておきます。

大雨の時でないと分からないのは、こんな部分の詰まりです。

こういう箇所を、雨水の流れ具合を見ながら、といの内部を長めの針金等を通して掃除してやります。

今日も詰まりがあったんですが、針金で詰まりを取ったら栗のイガとかが沢山流れ出てきて気持ちいいほど流れが良くなりました!

それと同時に、雨どいの水平部分からの水の溢れも解消されました。

さて、明日は汗をかくくらい沢山動きたいと思っています!

怒鳴りつけたのが妻と娘との最後の時間 消えない後悔

 今朝配信されていた文章です。読んで下さい。


<怒鳴りつけたのが妻と娘との最後の時間 10年間消えない後悔>

 10年たっても消えない後悔がある。

宮城県石巻市の消防士(39)はあの日の朝、妻を怒鳴りつけ、仕事に出た。

アパート1階のベランダで顔を紅潮させた妻。

抱かれた1歳2カ月の娘も大声に驚き、泣きだしそうだった。

それが、2人との最後だった。

 内勤2年目、年度末で忙しかった。

「男は働けばいい」

一昔前の気質で子育てや家事はほぼ任せっきり。

小さな衝突が重なり、夫婦関係はギクシャクしていた。

その夜も送別会で遅くなる予定だった。

アイロンがけが苦手な妻が仕事着のほかに宴席用の柄シャツも準備してくれていた。  

「こんなしわだらけのシャツなんて、恥ずかしくて着れねえべ」

よく確かめもせず、いら立ちをぶつけた。

車の窓から見えた妻は何か言いたげだった。  

その数日前、妻から相談を受けていた。

「地震が続くから、実家に戻るのはやめておいた方がいいかな」

「避難は支所でいいよね」

妻の実家は北上川河口に近く、指定避難所は鉄骨2階建ての市役所北上総合支所だった。

「それでいいよ」

素っ気なく答えた。  

妻に暴言を吐いた日の午後2時46分、東日本大震災が起きた。

騒然とした消防本部庁舎で妻からのメールを受けた。

「支所に避難しました」

一安心したがしばらくは会えないと思い、「子連れで大変だろうけど、頑張って」と送った。

 

<いつ戻ってきてもいいように>

 被害状況の把握や職員の安否確認に追われ、現場にも出た。

支所周辺の惨状は無線で知っていたが、誰もが不眠不休で活動する中、自分のことはしまい込んでいた。

メールへの返信がない・・・

「どうしたのかな・・・」

「生きていてほしい」

「もしかして・・・」

1週間後、上司に促されて支所に向かった。

津波は想定された最高水位の2倍を超える13.8メートルに達し、一部屋根も流され大破していた。

「やっぱり、駄目だったんだ・・・」  

身を寄せた市民や職員57人のうち生き残った3人のほかは津波にのまれた。

義姉と2人の子どもは遺体で見つかったが、妻と娘、義母の行方は分からなかった。

福岡や大阪の消防士の仲間が長期の休みを取って、入れ代わり立ち代わり捜索に駆け付けてくれた。

半年間、ヘドロや土砂をさらった。  

陸地は調べ尽くし、義兄と入り江にも行った。

急な岩場を伝っていた時、海に転落。

何とか引き上げられ、顔面や頭の骨折、脳内出血したが助かった。

本当は海で死にたかった。  

床上浸水したアパートは妻と娘がいつ戻ってきてもいいようにきれいに元通りにした。

おもちゃ箱も洗って乾かし、テープで補強した。

1人で毎日泣いた。

心配した上司に「実家に帰れ」と強く言われ、震災から3年後、遺品を手にそのアパートを引き払った。

 

<あの日の朝に戻りたい>

 あの時の青のストライプシャツは妻からの贈り物だった。

葬儀で袖を通し、気付いた。

しわ一つなく、きれいにアイロンがかけられていたことを。  

苦手なことを一生懸命してくれたのに・・・

仲直りのサインだったのかもしれないのに・・・

なぜ、あんな皮肉を言い放ったのか。

「ありがとう」「ごめん」がなぜすぐに言えなかったのか。  

実家に向かうことをためらっていた妻はあの日、愚痴をこぼしに行こうとしたのだと思う。

「ひどいことを・・・」

「俺はくそ野郎だ・・・」

あの日の朝に戻りたい!  

月命日には必ず2人が眠る追波湾を望む支所跡地の慰霊碑を訪れている・・・

災害から多くを学びたい

 東日本大震災からちょうど10年目となりましたが、特に大切な人を亡くされた方の気持ちは全く癒えていないことが分かります。

 

 この2011年の大震災のあとも、2012年5月栃木茨城の竜巻、2014年8月広島の豪雨、2014年9月木曽御嶽山の噴火、2016年4月熊本地震、2017年7月九州北部豪雨、そして2019年10月台風19号による東日本の豪雨。

私たちは休みなく大きな災害に見舞われていることを改めて思い知らされます。

特にこれからは、温暖化による豪雨、竜巻、台風といった災害は多発するだろうと言われています。

今後の災害に備えて、自分自身はもちろん、身の周りの人たちも守れるようになりたいと思っています。

故郷が消えてしまうということ

 明日3月11日で東日本大震災から10年になります。

あの大災害で故郷を景観と共に失ってしまわれた方々の心痛は、とても言葉では言い表せないものだと思っています。

 

 自分のことになってしまうんですが、ちょっと書かせて下さい。

自分は、父の仕事の関係で北海道夕張市鹿島町に住んでいたことがあるんです。

小学校2年生の時にはそこから北九州に引っ越してしまい、それから長い年月が流れました。

そして、今から10年ほど前のある時、ふと、このふるさとがどうなっているのか調べたくなったんです。

もう50年以上前のことを。

ネット検索してみると、すぐにたくさんの情報が見つかりました。

なんと、その時の夕張市鹿島町の人口はゼロ!

そして、ここ数年のうちにダム湖に沈み地図から消える運命だと!!

そんな ・・・!

なぜ? どうして? 

自分が通った鹿島小学校は多い時にはひと学年10クラス、町の人口は2万以上あったというのに・・・

 

 この夕張シューパロダムは2017年に完成し、ついに夕張市鹿島町はダム湖の中に沈んでいってしまいました・・・

学校も、公園も、商店街も、鉄道や駅舎も、道路も、郵便局も、病院も、役場も、そしてたくさんの家々も。

 

 夕張市鹿島町は最盛期には人口2万人を超え、夕張岳の麓の自然にあふれる町でした。

しかし、平成9年の人口はおよそ300人までに減り、1998年以降すべての人は立ち退いていってしまいました。

ダムの建設のために移住を余儀なくされたからです。

そして、とうとう地図の上から夕張市鹿島町は消えてしまったのです。

最後は湖の中に沈んでいきました・・・

 自分は、ここ鹿島富士見町に小学校2年生の6月まで住んでいました。

この地にたった1年6か月間しか住んでいなかったのに、その地でのたくさんの思い出は決して色あせることがないんです!

 

 このふるさとのことを思い出して検索したのは、今から18年ほど前でした。

毎晩毎晩、寝る時間も削ってフラフラになりながら自分が住んでいた町のことを検索し続けていたんです。

当時の鹿島富士見町の住宅地図がネット上に見つかり、ついにかつての自分の家も発見できました!

そして、ダム湖に沈む前のふるさとに何度出かけようと思ったことか。

すでに住宅は全部解体されていて雑草と荒れた更地が残っているだけだったのに、誰もいないその場所に逢いに行こうとしていたのです。

その時湧き上がってきた感情は、自分でも全く予期しないとても強いものだったことに驚かされました。

たった1年半しか暮らしていなかったのに。

大切なものが失われる時の悲しみがどれだけ強いものなのか・・・

 その地で生まれて、先祖代々何十年も過ごしてきた方々がふるさとを失う悲しみは、自分の体験とは比べ物にならないほど大きいものだろうと思ってしまうんです。