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2023年3月の記事一覧

引き渡した園児9人が津波に 保育園長の後悔

 東日本大震災当日、

保育園や幼稚園が保護者に引き渡した園児が、

その後の避難中、津波にのまれて亡くなった例が相次ぎました。

岩手県大槌町の認可保育園「大槌保育園」もそうでした。

八木沢弓美子園長は、8年を経て初めて朝日新聞の取材に応じ、

胸に秘めていた後悔と問いかけを口にしました。

 

>震災前から、熱心に避難訓練をしていたと聞きます。

 定期訓練とは別に、事前に職員にも知らせない抜き打ち訓練もしていました。

一度はお昼寝中にいきなり始めました。

 

 町が一次避難場所として指定していた空き地は雨風もしのげず、

子どもの足で歩いて15分はかかった。

自治会と相談して、高台のコンビニを独自に津波避難場所と決め、

5分で走って逃げる訓練を繰り返していました。

 

>震災当日は、そのコンビニにも津波が?

 当日は揺れを感じてすぐ、

「地震です。先生のそばに集まって下さい。大丈夫、こわくないからね」

と園内放送し、

揺れが収まったらすぐ職員が園児に防災ずきんと上着を着せました。

園庭に整列させ点呼をとる決まりになっていましたが、そんな時間はないと判断。

職員20人で、110人ほどの子どもを準備できたクラスからすぐ避難させました。

 コンビニの駐車場にいると次々に保護者が迎えに来ました。

約70人の子を引き渡した時点で、ふと水門の方を見ると、決壊し、電信柱がなぎ倒されていて津波と気づきました。

 残った40人ほどの子どもと国道を駆け上がり、国道沿いの山の急斜面を四つんばいになって必死に登り、何とか助かりました。

 暗くなってきたころ火災が起こり、また内陸側へ避難しました。

子どもたちは誰1人泣かず、しーんとして、街が津波にのみこまれ、火に巻かれる様子をじっと見ていました。

歩いて迎えに来た保護者に全員を引き渡し終えたのは2日後のことです。

 

>一方で、当日、コンビニで引き渡した園児のうち9人が犠牲となりました。

 多くが保護者とともに亡くなりました。

最後に引き渡した子は、遺体安置所で小さな右手を見たとき、すぐわかりました。

保育士を辞めなければならないと思った。

 今でも、

その子が「こわい」と言って私の左足にしがみついていたあの日の感触がよみがえることがあります。

ご遺族の気持ちを思えば、自分がした判断は許されないものです。

 

>ほかの子どもたちに変化はありましたか。

 震災から半年後、親子遠足を計画した時、

「行かない」という子がいて、子どもたちみんなで話し合うことになりました。

その中で、初めて亡くなったお友達の名前が出ました。

 ある年中の女の子が、「なんで津波が来たんだろう」と語り始め、

「園長先生がさ、(犠牲になったTちゃんたちに)『おうちへ帰らないで!』って言えばよかったじゃん!」と言いました。

初めてぶつけてきた本心でした。

「Tちゃんに会いたい」と言って、私も含めたみんなで号泣しました・・・

 

震災後に園で決めた災害時への備えは?

 いつでも避難できるように昼寝時のパジャマへの着替えをなくし、

入園式の時には、保護者の方たちに「引き渡しはしません」と明確に言って了解を得ています。

何度も職員どうしで話し合って決めたことです。

 

 津波などの災害時、安全な場所や避難経路は刻々と変わります。

現場にいる私たちが、そのつど判断をし、行動をとらないと、子どもの命を守ることはできません。

迎えに来る保護者が、途中で被災するリスクもあるうえ、

前線で誰かを助けなければならない仕事の保護者もいるでしょう。

保育園や幼稚園に子どもがいる間は、

そこにいる大人は100%子どもを守るというスタンスに立たないといけない。

 

もちろん、津波などの水害と他の災害は違いますし、保護者の理解も必要です。

全国全ての園で引き渡さないことが100%よいとは思っていませんが、

うちの園では引き渡さないことが「ベスト」だと思っています。

(犠牲になった)9人のことを思い返しながら、職員どうしで何度も話し合って決めました。

 

子どもの命を預かる施設で、どう対応するかを本気で議論するのは完全に大人の仕事で、大人の責任です。

私は、自分の判断の責任を一生背負っていかなければならないと思っています。