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2020年8月の記事一覧

原爆を運んだ後に撃沈された米巡洋艦

 広島と長崎に投下された原子爆弾は、アメリカ海軍の巡洋艦インディアナポリスによって1945年7月26日にテニアン島に運ばれた。

しかし任務を終えたインディアナポリスはその帰路、日本軍の潜水艦伊58号の魚雷攻撃によって沈められたのだ。

日本海軍にとっては太平洋戦争における最後の戦果だった。 

沈没直前、インディアナポリスから発信された救助信号はアメリカ軍に受信されたが、日本軍の謀略と考えたアメリカ軍側に無視されたため救助隊は出動せず、これが後の悲劇となる。

 インディアナポリスの乗組員1200人の内生き残った900人は海に投げ出され、6日後に救助されるまで、彼らは地獄を体験する。

水と食料はなくなり、昼間は空から照りつける太陽が体を焼き、夜は体温の低下、睡眠不足、幻覚症状、衰弱死する者、それに加えサメによる襲撃。

哨戒機に偶然発見されて救助されたのは8月5日。

救助された生存者は300名ほどであった。

 インディアナポリスの艦長、チャールズ・マクベイは、帰国後軍法会議にかけられた。

アメリカ海軍は第二次大戦で多くの軍艦を撃沈されたが、それを理由に軍法会議にかけられた艦長はマクベイだけだった。

結果、マクベイは有罪となり海軍を去ることになる。

しかしそれだけでは収まらないのが、亡くなった乗組員の遺族だった。

戦闘で戦死したのならまだしも、サメに食われたのではうかばれない、という理由である。

退役後も遺族たちに責め立てられ続けたマクベイは、自宅でピストル自殺してしまった。

 その30年後、話は意外な方向へ展開する。

インディアナポリスに興味を持った12歳のスコット少年は、夏休みの宿題の「歴史発掘コンテスト」に応募するため、図書館でインディアナポリスのことを調べたが資料がほとんど見つからなかった。

そこでスコット少年は生存者に手紙を出したり、直接会って話を聞いていたが、次第にこの悲劇は不当に扱われ、マクベイは無実なのではないかと考えるようになった。

彼のレポートの内容に驚いた地元議員がこのレポートを彼の事務所に掲示。

それがさらに地元紙の記者の目に止まり、新聞記事になって社会の注目を浴びるようになると、新たな事実が次々に判明していった。

 悲劇の原因は、先に述べたインディアナポリスの救助信号を日本軍の謀略と考えたことだけではなく、通信係から報告された上官が、勤務中にもかかわらず酔っ払っていてまともな対応をしなかったとか、現場に向かった救助船を「おれの命令なしで動かすな」と、帰還させた上官がいたとか。

またインディアナポリスはやや旧式の軍艦で、対潜探知機は装備していないため駆逐艦の護衛が必要だった。

しかし、なぜかマクベイの駆逐艦護衛の要請は、司令部からは却下された。

そして内部の数々の不始末を隠蔽し、責任逃れをするために、全責任をマクベイ一人に押し付けたことがわかったのである。

やがてマクベイの名誉回復のための運動が広まり、国会で彼の汚名を返上する決議が、海軍側の反対を押さえて採択された。

ビル・クリントン大統領が「インディアナポリス沈没の責任において、マクベイ艦長は無罪である」とする書面にサインした。

12歳の少年の「調査」が最終的には大統領をも動かし、マクベイの名誉は回復されたのだ。

 さて、伊58艦長橋本もアメリカの軍法会議に呼ばれたのだが、橋本の証言は、マクベイに有利な内容だったが黙殺されたようだ。

マクベイの名誉回復運動が起きていることを知った橋本は熱心に支援したが、マクベイの名誉が回復される5日前にこの世を去ったため、その事実を知ることはなかった。

 

 最後に、広島・長崎に投下した原爆に対する、アメリカ人の考え方だが、ひとことで言えば、人的な被害の一段の拡大が懸念された戦争を終わらせるためには、原爆投下はやむを得なかった、という考え方が底流にあるのではないか。

原爆を使わずに、日本の本土への上陸作戦を決行していたら、日米共により多くの人命が失われたはずで、原爆はむしろ、そうした多くの命を救うのに役立ったという考え方だ。

アメリカのベストセラーではよくみられる歴史観だ。

つまりは、これがアメリカ人の一般的な感じ方ということだろう。

原爆による被害の悲惨さを訴えるだけでは、なかなかアメリカ人の心には響きそうにない。

 

 一国の運命は影の黒い力に操られ、事実までもが曲げて伝えられたり、もみ消しが行われたり、戦争が終わった後も、過ちを正当化するような教育が行われているのではないでしょうか?

やはり、自分の目や心で事実を確かめて、当時のことをじっくりと考えてみることが大切なんだと、今更のように感じています。