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2025年1月の記事一覧

宮沢賢治「氷河鼠の毛皮」

 このおはなしは、ずいぶん北の方の寒いところからきれぎれに風に吹きとばされて来たのです。

十二月の二十六日の夜八時ベーリング行の列車に乗ってイーハトヴを発った人たちが、

どんなめにあったかきっとどなたも知りたいでしょう。

これはそのおはなしです。

 

 

一つの車には十五人ばかりの旅客が乗つてゐましたが

そのまん中には顔の赤いふとつた紳士がどつしりと腰掛けてゐました。

その人は毛皮を一杯に着込んで、二人前の席をとり、

アラスカ金の大きな指環をはめ、十連発のぴかぴかする素敵な鉄砲を持つていかにも元気さう、

声もきつとよほどがらがらしてゐるにちがひないと思はれたのです。

 

ひようがねずみの上着をもつた大将は唇をなめながらまはりを見まはした。

『君、おい君、その窓のところのお若いの。

失敬だが君は船乗りかね』

若者はやつぱり外を見てゐました。

月の下にはまつ白な蛋白石のやうな雲の塊が走つて来るのです。

『おい、君、何と云つても向ふは寒い、その帆布一枚ぢやとてもやり切れたもんぢやない。

けれども君はなかなか豪儀なとこがある。

よろしい貸てやらう。

僕のを一枚貸てやらう。

さうしよう』

けれども若者はそんな言が耳にも入らないといふやうでした。

つめたく唇を結んでまるでオリオン座のとこの鋼いろの空の向ふを見透かすやうな眼をして外を見てゐました。

『ふん。バースレーかね。

黒狐だよ。

なかなか寒いからね、おい、君若いお方、失敬だが外套を一枚お貸申すとしようぢやないか。

黄いろの帆布一枚ぢやどうしてどうして零下の四十度を防ぐもなにもできやしない。

黒狐だから。

おい若いお方。

君、君、おいなぜ返事せんか。

無礼なやつだ君は我輩を知らんか。

わしはねイーハトヴのタイチだよ。

イーハトヴのタイチを知らんか。

こんな汽車へ乗るんぢやなかつたな。

わしの持船で出かけたらだまつて殿さまで通るんだ。

ひとりで出掛けて黒狐を九百疋とつて見せるなんて下らないかけをしたもんさ』

 

 夜がすつかり明けて東側の窓がまばゆくまつ白に光り西側の窓が鈍い鉛色になつたとき

汽車が俄にとまりました。

みんな顔を見合せました。

『どうしたんだらう。

まだベーリングに着く筈がないし故障ができたんだらうか。』

 そのとき俄に外ががやがやしてそれからいきなり扉ががたつと開き朝日はビールのやうにながれ込みました。

赤ひげがまるで違つた物凄ものすごい顔をしてピカピカするピストルをつきつけてはひつて来ました。

 そのあとから二十人ばかりのすさまじい顔つきをした人がどうもそれは人といふよりは白熊といつた方がいゝやうな、

いや、白熊といふよりは雪狐と云つた方がいいやうなすてきにもくもくした毛皮を着た、

いや、着たといふよりは毛皮で皮ができてるというた方がいゝやうなものが

変な仮面をかぶつたりえり巻を眼まで上げたりしてまつ白ないきをふうふう吐きながら

大きなピストルをみんな握つて車室の中にはひつて来ました。

 先登の赤ひげは腰かけにうつむいてまだねむつてゐたゆふべの偉らい紳士を指さして云ひました。

『こいつがイーハトヴのタイチだ。

ふらちなやつだ。

イーハトヴの冬の着物の上にね

ラツコ裏の内外套うちぐわいたうと

海狸の中外套と黒狐裏表の外外套を着ようといふんだ。

おまけにパテント外套と氷河鼠の頸のとこの毛皮だけでこさへた上着も着ようといふやつだ。

これから黒狐の毛皮九百枚とるとぬかすんだ、叩き起せ。』

 二番目の黒と白の斑ぶちの仮面をかぶつた男がタイチの首すぢをつかんで引きずり起しました。

 

そして一人づつだんだん出て行つておしまひ赤ひげがこつちへピストルを向けながらせなかでタイチを押すやうにして出て行かうとしました。

タイチは髪をばちやばちやにして口をびくびくまげながら前からはひつぱられうしろからは押されて

もう扉とびらの外へ出さうになりました。

 にはかに窓のとこに居た帆布の上着の青年がまるで天井にぶつつかる位のろしのやうに飛びあがりました。

ズドン。

ピストルが鳴りました。

落ちたのはたゞの黄いろの上着だけでした。

と思つたらあの赤ひげがもう足をすくつて倒され青年はふとつた紳士を又車室の中に引つぱり込んで

右手には赤ひげのピストルを握つて凄い顔をして立つてゐました。

 赤ひげがやつと立ちあがりましたら青年はしつかりそのえり首をつかみピストルを胸につきつけながら外の方へ向いて高く叫びました。

『おい、熊ども。

きさまらのしたことはもつともだ。

けれどもなおれたちだつて仕方ない。

生きてゐるにはきものも着なけあいけないんだ。

おまへたちが魚をとるやうなもんだぜ。

けれどもあんまり無法なことはこれから気を付けるやうに云ふから今度はゆるしてくれ。

ちよつと汽車が動いたらおれの捕虜にしたこの男は返すから』

『わかつたよ。すぐ動かすよ』

外で熊どもが叫びました。

『レールを横の方へ敷いたんだな』

誰かが云ひました。

 氷ががりがり鳴つたりばたばたかけまはる音がしたりして汽車は動き出しました。

『さあけがをしないやうに降りるんだ』

船乗りが云ひました。

赤ひげは笑つてちよつと船乗りの手を握つて飛び降りました。

『そら、ピストル』

船乗りはピストルを窓の外へはふり出しました。

『あの赤ひげは熊の方の間諜だつたね』

誰かが云ひました。

わかものは又窓の氷を削りました。