音楽日記 自分の言葉で書いていきたい!

音楽日記

知名度が高くない演奏者、ホール ところがとてもいい演奏会だった!

 演奏会は、知名度、実績、ブランドで聴くものではない。

先入観を持たずに、自分の耳で演奏会のすばらしさを判定出来た時の嬉しさはひとしお!

今日出逢った指揮者、オーケストラ、そしてホール。

熱演と音響の良さに驚いた!

また是非聴きに行きたい!!

 

そして、本日最後の曲のフィナーレは、「キーウの大きな門」!

圧巻の演奏に出逢えた喜びと共に、「ウクライナに幸あれ!」と祈りたい。

 

小澤征爾さんを偲ぶ(4) 続・N響事件の真相

 この騒動がなければ、小澤さんは日本で安泰の指揮者生活を送り、

「世界のオザワ」にはなれなかったかもしれない。

というのも、このあと、小澤さんは、北米で素晴らしい仕事を次々と成し遂げるのです。

シカゴ交響楽団を振り、さらにトロント交響楽団指揮者、サンフランシスコ交響楽団音楽監督に就任する。

 

 ある音楽ジャーナリストは、この時期の小澤征爾が大好きだという。

「日本は自分を見限ったとの思いがあるのか、ふっきれた、若々しい演奏ばかりです。

そもそも、海外のメジャーオーケストラのLPジャケットに、堂々と顔が載る日本人なんて、このとき初めて見ました。

特に、サンフランシスコ交響楽団の「パリのアメリカ人」のジャケットは、まるで当時のヒッピー風ファッション。

アメリカではこんな服装で指揮しているのかと驚いたものです。

トロント交響楽団の「幻想交響曲」、演奏はものすごい熱気。

 

 

その後、小澤は1973年にボストン交響楽団音楽監督に就任し、2002年まで務めることになる。

ウイーンフィル ニューイヤーコンサートへも登壇、

ウイーン国立歌劇場音楽監督もつとめ、

いわば世界クラシック界の頂点に立った。

しかし、その原点はN響事件だったともいえるのだ。

 

「N響事件は、多くの文化人やマスコミが、様々な見方で論評しています。

そのなかで、もっとも正鵠を射ているように思うのが、

小澤さんの恩師で、当時、桐朋女子学園校長だった生江義男さんの論考です」

生江義男は、通信簿や入学筆記試験を廃止し、のちに桐朋学園理事長をつとめる名物教師だ。

その生江校長が、事件の最中に

『小沢君の音楽を聞いて下さい 一教師のねがい』と題した文を、朝日新聞に寄稿している。

 

 1952年、桐朋女子高校に「男女共学」の音楽科が創設された。

【それまでの女子だけの学園に男の子がはいってくるということは、PTAの間に大きな波紋をまきおこした。

そうした最中に、小澤君はおかあさんに連れられて受験にやってきた】

生江校長は、面接で、女子高に初めて男子が入ることの大変さを説明した。

すると、

【彼は、おかあさんの方をかえりみながら、舌をペロリとだしてうなずいた】

という。

【それからの音楽科は、ある意味で彼を中心に動いたといっても過言ではない。

しかし、よくいたずらもした。

遅刻もまた常習だった。

たのまれれば、いやとはいえない彼の性格は、よく友だちのことまでひきうけては問題になった。

注意されると、ニッコリ笑って手を頭にあげて恐縮する。

が、信念を貫くときの彼の行動は、いかにも自信満々としている】

 遅刻の常習、頼まれればいやとはいえない、そして自信満々な高校生・・・

生江校長は

【いま、NHK、N響に対しての、彼の言動は、学生のころと少しも変わりはない】

として、こう綴るのだ。

【どうして、N響の先輩の人びとが、愛情のこもった苦言や、指導をしてくれなかったのだろうか。

おそらく、彼は、ニッコリと笑って、手を頭にあげて恐縮したかも知れない。(中略)

若き天才としての小澤と同時に、

人間的にも、芸術的にも未完成な(それだけに無限の未来が予約されるのだが)小澤の両面を、

分けてとりあげたところに、今度の問題が胚胎していたのではないだろうか】

 

「N響事件の本質は、これに尽きると思いました。

まだ世の中を知らないような青年を招いた以上、N響は、その責任を負うべきだったのです。

オーケストラは教育機関ではないといわれればそれまでですが、

だったら、呼ぶべきではありませんでした。

ある意味、このときの小澤さんは、未熟な日本クラシック界の犠牲者だったのではないでしょうか

 

 生江校長は、一文の最後を、こう結んでいる。

【日本での新しいプラスを小澤君に背負わせて、もう一度、彼を世界の舞台にたちもどらせてほしい。

私の願いはこれにつきる】

 

 この事件のさなかでさえ、生江校長のような温かい理解者はいらっしゃったんですね!

このあと、世界トップクラスの指揮者となった小澤征爾は、

多くの音楽ファンと共に、最後までこのような理解者に囲まれていたんじゃないかと感じています。

そして、サイトウキネンオーケストラ、セイジオザワマツモトフェスティバルは、

彼の遺志を未来永劫引き継ぎ、活動していくと表明しています。

そして、彼が館長と音楽監督を務めた水戸芸術館、水戸室内管弦楽団も。

彼の志は亡くなってはいないのです!

 

小澤征爾さんを偲ぶ(3) N響事件の真相

 小澤征爾は、1948年成城学園中学校に入学。

中学ではラグビー部に所属する傍ら豊増昇にピアノを習う。

当時はピアニスト志望だったが、

ラグビーの試合で、右手人指指骨折の大怪我を負いピアノの道を断念。

小澤が、ピアノを諦めようとした時、

「指揮という道もあるよ」

と言って、新しい道を拓いてくれたのも豊増昇だった。

齋藤秀雄の指揮教室に入門したため、

1952年、齋藤の肝煎りで設立された桐朋女子高校音楽科へ第1期生として入学。

当時、癇癪持ちの齋藤から、指揮棒で叩かれたりスコアを投げつけられたりするなどの体罰を日常的に受けていたため、

あまりのストレスから自宅の本箱のガラス扉を拳で殴りつけ、大怪我をしたこともあった。

1955年、齋藤が教授を務める桐朋学園短期大学へ進学。

1957年夏に同短期大学を卒業。

4月に卒業できなかったのは、肺炎で卒業試験が受けられなかったためであり、

のちに追試を受けて卒業が認められたが、

療養期間中には仲間がどんどん仕事をしたりマスメディアに出演したりするのを見て、焦りと嫉妬に苦しんだという。

このとき父から

「嫉妬は人間の一番の敵だ」

と言われて嫉妬心を殺す努力をしたことが、後になって大変役立ったと語っている。

1957年頃から、齋藤の紹介で群馬交響楽団を振り始め、群響の北海道演奏旅行の指揮者を担当。

12月には、日本フィルハーモニー交響楽団にて、渡邉暁雄の下で副指揮者を務める。 

1958年、「フランス政府給費留学生」の試験を受けたが不合格となる。

しかし、成城学園時代の同級生の父である水野成夫たちの援助で渡欧資金を調達。

1959年2月、スクーター、ギターとともに貨物船で単身フランスに渡る。

このとき、小澤というアシスタントを失うことを恐れた齋藤から渡欧について猛反対を受けたが、

桐朋の父兄会や水野成夫たちの支援を得て、1200ドルの餞別を受けた。

同年、パリ滞在中に第9回ブザンソン国際指揮者コンクール第1位。

ヨーロッパのオーケストラに多数客演。

カラヤン指揮者コンクール第1位。

カラヤンに師事。

1960年、アメリカ、ボストン郊外で開催されたバークシャー音楽祭でクーセヴィツキー賞を受賞。

シャルル・ミュンシュに師事。

1961年ニューヨークフィルハーモニック副指揮者に就任。

レナード・バーンスタインに師事。

同年ニューヨークフィルの来日公演に同行。

カラヤン、バーンスタインとの親交は生涯に渡り築かれた。

 

 小澤征爾とNHK交響楽団が初めて顔合わせしたのは、1961年7月。

翌年には、半年間、客演指揮者として契約。

さらに12月まで契約期間が延長された。

7月には、作曲者メシアン立ち合いのもとトゥーランガリーラ交響曲日本初演を指揮した。

小澤とN響のコンビは順調に活動しているかのように思えたが、

10月の香港を皮切りとするシンガポール、マレーシア、フィリピン、沖縄への演奏旅行で

N響と小澤の間に感情的な軋轢が生じ、11月の定期公演の出来ばえが新聞に酷評された。

直後、N響の演奏委員会が

「今後小澤氏の指揮する演奏会、録音演奏には一切協力しない」と表明する事態となってしまった。

 小澤とNHKは折衝を重ねたが折り合わず、

N響の理事は小澤を「あんにゃろう」と罵り、N響は小澤に内容証明を送りつけ、

小澤も1962年12月、NHKを契約不履行と名誉毀損で訴える事態となった。

このため、12月20日、第435回定期公演と年末恒例の「第九」公演の中止が発表された。

 

 このトラブルの原因について、小澤が遅刻を繰り返したためという説を八田利一が述べている。

原田三朗もまた、小澤が「ぼくは朝が弱い」と称して遅刻を繰り返し、しかもそのことを他人のせいにして謝罪しなかったのがN響から反感を買った一因だったと述べている。

東南アジア演奏旅行における小澤は、ホテルのバーで朝の6時半まで飲み明かした状態で本番に臨み、

マニラ公演で振り間違いを犯して演奏を混乱させ、コンサートマスターの海野義雄らに恥をかかせた上、

「38℃の熱があった」「副指揮者が来なかったせいだ」

と虚偽の弁解を並べて開き直ったためにN響の信頼を失ったといわれている。

ただし小澤自身は、

「副指揮者なしで、孤軍奮闘したぼくは、酷暑のこの都市で、

首の肉ばなれのため39℃の発熱をし、ドクターストップをうけた。

このような状態で棒をふったために、些細なミスを冒してしまった。

しかし、演奏効果の点では、全く不問に附していいミスであったとぼくは思う。

それを楽員の一部の人たちは、ぼくをおとし入れるために誇大にいいふらし、あれは仮病であるとまでいった」

と反論している。

 後年、1984年の齋藤秀雄メモリアルコンサートを追ったアメリカのテレビドキュメンタリーで、小澤はこの事件の背景について

「僕の指揮者としてのスタイルはアメリカ的で、いちいち団員に指図するやり方だった。

でも日本での指揮者に対する概念はそうではない。

黙って全体を把握するのが指揮者だ。

この違いに加えて僕は若造だった」

との趣旨の発言で振り返っている。

しかし原田三朗はこの見解を否定し、

「アメリカで育ったような小澤の音楽と、

ローゼンストック以来のウィーン楽派とシュヒターのベルリンフィル的な訓練に慣れたN響の音楽観のちがいが紛争の原因だという見解が、当時支配的だった。

楽団員は若い指揮者をそねんでいるとか、もっとおおらかでなければならない、

などという意見も強かった。

しかし、本当の原因はそんな立派なことではなかった。

遅刻や勉強不足という、若い小澤の甘えと、

それをおおらかにみようとしない楽団員、

若い指揮者を育てようとしなかった事務局の不幸な相乗作用だった」

と述べている。

この時、小澤が病気と称してN響との練習を休んだ当日、

弟の幹雄の在学する早稲田大学の学生オーケストラで指揮をしている姿を目撃された事件もあり、

N響の楽団員の間では小澤に対する反感と不信感が募っていった。

 

 この事件はN響にとどまらず政財界を巻き込む社会問題に発展し、

青柳正美、秋山邦晴、浅利慶太、安倍寧、有坂愛彦、一柳慧、石原慎太郎、井上靖、大江健三郎、梶山季之、曽野綾子、高橋義孝、武満徹、谷川俊太郎、團伊玖磨、中島健蔵、黛敏郎、三島由紀夫、村野藤吾、山本健吉、由起しげ子が

「小澤征爾の音楽を聴く会」を結成し、

NHKとN響に質問書を提出すると共に、

芥川也寸志・武満徹・小倉朗といった若手音楽家約10名が事件の真相調査に乗り出した。

小澤は、活動の場を日本フィルに移し、

翌1963年1月、日比谷公会堂における「小澤征爾の音楽を聴く会」の音楽会で指揮。

 

 三島由紀夫は『朝日新聞』1月16日付朝刊に

「熱狂にこたえる道 小沢征爾の音楽をきいて」という一文を発表した。

 

 日本には妙な悪習慣がある。

『何を青二才が』という青年蔑視と、

もう一つは『若さが最高無上の価値だ』というそのアンチテーゼ(反対命題)とである。

私はそのどちらにも与しない。

小澤征爾は何も若いから偉いのではなく、いい音楽家だから偉いのである。

もちろん彼も成熟しなくてはならない。

 今度の事件で、彼は論理を武器に戦ったのだが、

これはあくまで正しい戦いであっても、

日本のよさもわるさも、無論理の特徴にあって、論理は孤独に陥るのが日本人の運命である。

その孤独の底で、彼が日本人としての本質を自覚してくれれば、

日本人は、

亡命者的な『国際的芸術家』としての寂しい立場へ、彼を追いやることは決してないだろう」

「私は、彼を放逐したNHK楽団員の一人一人の胸にも、

純粋な音楽への夢と理想が巣食っているだろうことを信じる。

人間は、こじゅうと根性だけでは生きられぬ。

日本的しがらみの中でかつ生きつつ、

西洋音楽へ夢を寄せてきた人々の、その夢が多少まちがっていても、

小澤氏もまた、

彼らの夢に雅量を持ち、この音楽という世界共通の言語にたずさわりながら、

人の心という最も通じにくいものにも精通する、真の達人となる日を、私は祈っている」

・・・

このように述べた。

 

 結局、1月17日に黛敏郎らの斡旋により、

NHK副理事の阿部真之助と小澤が会談し、これをもって一応の和解が成立した。

 しかし

「あの時は『もう俺は日本で音楽をするのはやめよう』と思った」

ほどのショックを受けた小澤が、次にN響の指揮台に立ったのは32年後のことであった。

小澤は後年、

「N響とのトラブルが刺激になって、よく勉強した」とも述懐している。

 

1995年1月23日、サントリーホールにおいて小澤とN響は32年ぶりに共演を果たした。

このコンサートは、日本オーケストラ連盟主催による、

身体の故障で演奏活動が出来ないオーケストラ楽員のための慈善演奏会であった。

チェロ独奏にはロストロポーヴィッチを迎えての演奏である。

曲目は、

 バッハ G線上のアリア(阪神淡路大震災犠牲者追悼)

 バルトーク 管弦楽のための協奏曲

 ドヴォルザーク チェロ協奏曲

  バッハ 無伴奏チェロ組曲第2番サラバンド(阪神淡路大震災犠牲者追悼)

なお、小澤は、このコンサートを引き受けた理由として

「(N響事件を知る)昔の楽団員が退職したり亡くなったりしていなくなったから引き受けた」

という趣旨の発言をしている。

 

小澤征爾さんを偲ぶ(2)

 自分の最近10年ほどの間で、繰り返し聴いている小澤さんのCDがありました!

プロコフィエフの「キージェ中尉組曲」の中の、特にロマンスとトロイカの2曲です。

小澤さんがベルリンフィルを振った録音なんですが、

バリトンソロが入っているヴァージョンなんです!

自分は、声が入っているヴァージョンは意識して避ける方だったんですが、

この曲、バリトン入りの方が絶対にイイ!

なのに、レコーディングは声が入ってない盤がほとんどなんです。

(原語で歌うのが難しいとか聞いたように記憶しています) 

このCDはプロコフィエフの交響曲全集とのカップリングで、

キージェ中尉の声入りヴァージョンを採用したのは小澤さんの意向だと思うんです。

この盤のバリトンソロは、Andreas Schmidt です。

朗々とした、本当に素晴らしい歌声なんです!! 

小澤さんを偲びながら、シュミットさんのバリトンに耳を傾けて欲しいと思います。

バックの小澤さん指揮ベルリンフィルの演奏も、この曲では文句なく素晴らしいと思う!

 

 ロマンス https://youtu.be/Uq5L4LFBnyY

 トロイカ https://youtu.be/Uq5L4LFBnyY

 

小澤征爾さんを偲ぶ(1)

 

 小澤さんの演奏で特に強く印象に残っているのは、

サイトウキネンオーケストラとのヨーロッパツアーでもたびたび演奏された、ブラームス第1交響曲

これは、ベルリンのシャウスピールハウスで録音もされて、フィリップスからCDリリースされました。

もう一つは、水戸室内管弦楽団とのヨーロッパツアー、イタリアフィレンツェでの公演

NHKFMで放送されましたが、

この中のストラヴィンスキー「プルチネッラ組曲」が、自分の中では今でも最高の演奏です。

(スタジオ録音のCDも出ていますが、こちらはお行儀良すぎて好きになれない)

 

小澤さん指揮ボストン交響楽団と自身のナレーションで、

ブリテン青少年のための管弦楽入門を聴くのもいいと思うんだけど、Youtubeにはあがっていません。

 

自分が大学時代に見つけたLPレコードの中に、

William Russo作曲「Street Music」という曲が入っていました。

この曲のレコーディングは、小澤さん指揮のものしかないようです。

副題は「A Blues Concerto」で、

Corky Siegel がハーモニカソロを吹き、エレクトリックピアノ(だと思う)も弾いている

これのバックが、小澤征爾指揮サンフランシスコ交響楽団 

そしてこの録音は、ハーモニカ、オケ共に熱い!

 あまり紹介されてないこの曲を聴いて下さい!

 

 第1楽章 https://youtu.be/T_9BnTik2rc

 第2楽章 https://youtu.be/T_9BnTik2rc

 第3楽章 https://youtu.be/T_9BnTik2rc

 第4楽章 https://youtu.be/316ONlGAlak

城ヶ島の雨(1)

 毎朝の2匹の犬の散歩の前に雨雲レーダーを確認するようにしています。

今朝は、雨が降り出す予報時刻の前に家を出たんですが、強めの霧雨(?)が降っていました。

そんな散歩の途中でふと思い出したのが、北原白秋作詞・梁田貞作曲の「城ヶ島の雨」です。

この曲を知ったのは、母が父の転勤先で入院していた頃でした。

父が病床の母にオルゴールを贈ったんです。

初めて目にした「ちょっとした大きさのオルゴール」で、三協精機製の立派なものでした。

入っていたのは、「城ヶ島の雨」と「波浮の港」(野口雨情作詞)の2曲でした。

このオルゴールが鳴ったとたん、すぐに虜になってしまいました!

まず、オルゴールとは思えない豊かな響き!

キレイだけど柔らかい高音域、豊かな中音域、手応えのある低音域

そして、あまり聴いてこなかった日本のメロディー

「特有の音階の移り変わり」と言えばいいんでしょうか。

日本人なのに、こういう音楽にそれほど馴染んで来なかったんですね・・・

でも、確実に心の深いところに浸み込んでくる・・・

歌詞を知らないまま、何度も何度も聞かせてもらいました。

母が亡くなった今、このオルゴールは自分の宝物になっています。

 

さて、この曲の歌詞は・・・

 

<城ヶ島の雨>

雨はふるふる 城ヶ島の磯に
利休鼠の 雨がふる
雨は真珠か 夜明けの霧か
それともわたしの 忍び泣き

舟はゆくゆく 通り矢のはなを
濡れて帆上げた ぬしの舟

ええ 舟は櫓(ろ)でやる
櫓は唄でやる
唄は船頭さんの 心意気

雨はふるふる 日はうす曇る
舟はゆくゆく 帆がかすむ

(続く)

 

共生へのアンサンブル

 3月12日のクラシック音楽館は、

『共生へのアンサンブル』コンサート ~「孤独のアンサンブル」をこえて

の演奏会を中心に構成された番組でした。

新型コロナによるパンデミックになった2020年から3年弱経った昨年の12月1日に開催された演奏会で、

緊急事態制限で外出もままならない孤独な練習から、

ソーシャルディスタンスの制約での演奏を経て、ようやく以前の状況にもどるまでを、

各楽器奏者の独奏から共生へのアンサンブルへと繋いでゆく趣向のコンサートでした。

 

 クラリネットソロで、チャイコフスキー「花のワルツ」

オーボエフルート2重奏で、グノー「アヴェ・マリア」

ソロやデュオでは、奏者の技量がないと、すぐに退屈になってしまうんですが、

花のワルツ、クラリネット1本であれほどの表現が出来るとは!!

 

後半は4曲しか聴けなかったんですが、大オーケストラ用の3曲とハイドン、本当に素晴らしかった!!

編成は確か、ヴァイオリン3、チェロ2、フルート1、オーボエ1、クラリネット1、ファゴット1、トランペット2、ホルン1、トロンボーン1、打楽器なしだったと思います。

これでマーラー(第6のアンダンテ)もやったんです!

シベリウス「フィンランディア」、ムソルグスキー「展覧会の絵からキーウの大門」は、ウクライナの勝利を願って演奏されたんじゃないでしょうか?

そして、私たちの「コロナの克服」が見えてきた希望としても。

最後は、ハイドンの告別交響曲を奏でることによって、各プレーヤーが元のオーケストラに帰っていくという趣向でした。

 

まず、これほどの小編成で「聞かせる演奏」になっているというのは、

各プレーヤーの最上の技術、それに、これも最上のアンサンブル能力がないと不可能なのです!

そして、決してオーケストラの演奏に負けていない!

オーケストラ演奏の代用でもない!

 

自分は、小編成のアンサンブルは大オーケストラより上の表現が出来ると思っています!

小編成では大音量は出せませんが、細やかな彫りの深い表現に驚かされます。

立体的な表現も、実は小編成の演奏の方が上手なんです。

例えば、水戸室内管弦楽団のマーラーのCD!(音源が直接紹介できないのは残念です・・・)

サンサーンス「動物の謝肉祭」10名ほどの編成なんかも良く分かると思います。

Youtubeなら、篠崎さんのマロオケの演奏がいくつか聴けます!

安直な効果なんか全くないので、物足りなく聞こえるかもしれません。

でも、

「基本に忠実に、誠実に音を彫琢していく」

これが真の迫力に繋がっていくことにいつか気付くと思います!!

さらに、ここに奏者の感興が乗ってきた時、

鳥肌が立つような演奏に出会うことがあるんです!!

ぜひぜひ、上質の小編成の演奏を聴いてみて下さい!!

 

1つ、この演奏を紹介したいと思います。

チャイコフスキー「弦楽セレナード」 

演奏:サイトウキネンオーケストラ(小編成)

 https://youtu.be/bGHZBAZFYaA

そして、第2楽章だけでなく、第3楽章エレジアもお聴き逃しなく!

素晴らしく感動的なフィナーレまで続けて聴けます!

 https://youtu.be/bGHZBAZFYaA?t=929

きれいであってはならない!

「芸術はきれいであってはならない」

「芸術はここちよくあってはならない」

岡本太郎氏の有名な言葉ですが、自分にはピンとくるものがあるんです!

 

「きれいだけではつまらない」

「ここちよいだけではつまらない」

と、自分流に言い替えてみました。

芸術はもちろんですが、全てのことに通じるような気がしています!

食べ物でさえ、この名言が当てはまるのではないでしょうか?

 

自分が一番大切にしたいものは「生命力」です。

多くの人たちがチヤホヤする「儚いキレイさ」なんて、どうでもいいとさえ感じることがしばしばです。

キレイなもの、力強いもの、二者択一なら、

自分は迷わず「力強いもの」に目を向けます!

そして、

「キレイ」は儚く表層的なもの、「美しい」は生命力を併せ持った力強く内面的なもの。

自分はこんな風に捉えています。

 

感動的な音楽は、決して「キレイ」だけでは言い表したり出来ません。

美しいと表現される音楽には、様々な形の生命力が必ず宿っていることに気付くはずです!

 

先日、ドラマの中の尼将軍の名言に触れ、やはり同じようなことを感じました!

力強さ、生命力がないとダメなんだと。

二人の指揮者 文字通り命をかけたウクライナ人と、私欲を捨てられなかったロシア人

 ウクライナ人の指揮者ユーリ・ケルパテンコ氏が、ロシア兵に射殺された。

 彼は、紛争開始以来占領されているウクライナ南部の都市ヘルソンで、

「占領軍への協力を拒否した」ために、

自宅でロシア兵に射殺された。

 

ロシア側は、

ヘルソンにおける、自称『平和な生活の回復』のデモンストレーションとして、

オーケストラコンサートを利用したかったのだ。

 

しかし、ケルパテンコ氏は、

「占領軍との協力をきっぱりと拒絶した」

 

ケルパテンコ氏は、1976年ヘルソン生まれ。享年46歳。

1991年にへルソン音楽学校に入学し、

在学中、民族楽器の演奏家による地方および国のコンクールで受賞を重ねた。

2000年、キーウ国立音楽アカデミーのアコーディオン科を、

2004年には、オペラ・交響楽指揮科を卒業。

ヘルソン音楽・演劇劇場の首席指揮者を務めていた。

国際的に派手なキャリアではないが、

地元の伝統楽器を愛し、地元の芸術の発展に貢献するという、

生まれ故郷のために働いた音楽家だった。

 

ヘルソン地域は、

かつてクリミア半島やザポリージャ地域と一緒に「タヴリダ」と呼ばれる、

独自の歴史をもつ土地だった。

戦争が始まる前、

ヘルソンに住み音楽を愛した人の中には、ロシア語話者やロシア人もいたはずだ。

もちろんタタール人や他の人たちも。

ヘルソン音楽・演劇劇場が彼らを排除していたとは、とても思えない。

 

しかし戦争で、

ヘルソンは銃弾と砲撃に踏みにじられ、分断されてしまった。

ケルパテンコ氏は、侵略者のプロパガンダの手先になるのを拒絶して殺された。

 

 

ウクライナの敵国ロシアに、対照的な指揮者がいる。

今年10月13日、

ロシアの指揮者ヴァレリー・ゲルギエフが、

スウェーデンの王立アカデミーから追放された。

 「現在ウクライナを攻撃しているロシア政府と緊密に連携している」

ということを理由に、

スウェーデン王立音楽アカデミーから除名された。

 

ゲルギエフ氏は、プーチン大統領と親しいことで知られている。

モスクワで生まれ、現サンクトペテルブルクでキャリアを築いた人物だ。

 

2014年のクリミア併合の際には、

いち早く支持を表明し、ロシアの世論に影響を与えた。

また、2012年の大統領選では、

プーチン陣営のテレビCMにも登場し、支持を呼び掛けていた。

 

ドイツのミュンヘン・フィルで主席指揮者を務めていたが、

すでに解任されている。

フランス、イタリア、アメリカ、オランダなど、欧米のコンサートホールからすでに

「ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)」として扱われていた。

 

タス通信によると、彼は6月16日、以下のように発言したという。

 

「私はマリインスキー劇場の責任者」であり、

「マリインスキー劇場には多くの若手演奏家がいるが、

その人たちに時間を割くことができるようになりました」

 

ウクライナ戦争については、彼はノーコメントを通している。

ミュンヘン・フィルは、

「プーチン大統領に対して、公に距離を置くように」

という要請をしたのに、彼から返事がなかったため、解任したのだ。

 

ちなみに、

ボリショイ劇場の音楽監督兼首席指揮者を務めるロシア人のトゥガン・ソヒエフ氏は、

同じ状況に置かれているのに、まったく別の選択をした。

 

フランスのトゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団の音楽監督でもあった彼は、

やはり、ウクライナ侵攻に対する態度表明を迫られた。

そして

「最愛のロシアとフランスの音楽家たちのどちらかを選ぶ」

という不可能な選択を迫られたために、

ボリショイ劇場もトゥールーズのほうも、両方辞任したのである。

今年3月のことだった。

 

2022年4月、

反骨の反体制ジャーナリスト・アレクセイ・ナヴァルニー氏のチームが、

マリインスキー劇場の若い才能を支援するはずの音楽家名義の慈善基金を通じて、

ゲルギエフ氏が資金流用を行っていたという調査結果を発表した。

慈善基金自体は、

国営企業から4年間で約40億ルーブル(約3800億円)の寄付を受けている。

ゲルギエフ氏は、

その口座を個人の財布として、レストランへの旅行、高級酒や葉巻、飛行機代、医者代、光熱費など、あらゆるものの支払いに使っているという。(!)

また、ゲルギエフ氏は、外国にも1億ユーロ以上の資産を、多数所有しているという。

しかし、これらの財産はすべてゲルギエフ氏の申告書に記載されていないというのだ。 

今、若手の教育に本当に時間を割けるというのなら、

ぜひきっちり3800億円分行って欲しい、と言うべきである!

 

 

政治と芸術

この問題をどのように咀嚼するべきだろうか。

人々は、才能ある有名な人々の生きざまを、よく見ているものだ。

特に戦時の今は、

人々が良心に従って芸術家を非難し、疎外することは当然あり得る。

たとえ非難され排斥されても、

40年以上経てば、

もし芸術家に本物の才能があり、人々が同情できる隠されていた理由があったり、その難しい立場に理解を示したりできるような要素があれば、

彼らは再評価を受けるだろう。

非難された出来事の当時に若かった芸術家なら、

その後の生き方も人々は見ているだろう。

埋もれてそれっきり、ということはないだろう。

 

才能がある人に甘くなる気持ちだってあり得る。

でも、どんなに才能があるからといって、

非人道的なことをして良いという理由にはならない。

ルネサンスの時代の昔から、この人間の掟は変わっていない。

才能があるなら許されると思っているなら、それは思い上がりであると思う。

「The Old Chisholm Trail」歌詞の意味

 60年ぶりに見つけたレコードの曲は、幼児のために作曲された音楽だと今までずっと思い込んでいました。

ところが、特に子守唄以外は全くそうではなかったのです!

この中の「The Old Chisholm Trail」を前回紹介しましたが、歌詞はどんな内容なんでしょう?

 

 Chisholm Trail(チザム・トレイル)は、

昔テキサスからオクラホマを経て、カンザス州の鉄道駅ウィチタやアビリーンまで牛を運ぶルートに使われた道で、

この歌は、その道中でのカウボーイの日常を何でもかんでも歌にして面白おかしく歌っているんです。

単純だけど調子がよくて、楽しい(時には自嘲的な)ものなんです・・・

歌う人によって内容はさまざまなんですが、代表的なものを挙げてみると、

 

「みんな傍に来て俺の話を聴いてくれよ

チザム街道での話しをよお~

10ドルの馬と40ドルの鞍にまたがって、

牛たちを追ってテキサスを行くう~

食事とくりゃあ、来る日も来る日もベーコンと豆ばっかり。

ちょっとしかないし、アッという間に食っちまわぁ~

朝から晩まで牛追いでクタクタだってのに、

給料は少ないとくらぁ!

もうあんなbossのためになんか働きたくないってんだ!・・・

早く女房を見つけて、落ち着きたいなぁ~!」

 

といった、辛い仕事や不満を歌にしてうっぷんを晴らす・・・

みたいな内容なんですね。

でも、そこには陽気なアメリカ気質も顔をのぞかせていて、

ユーモラスなところもあるんですね!

 

まさに、古き良き時代のアメリカの、

活気に満ちた男たちの歌だったんですね!

60年ぶりに! ついに見つけたこのレコード!

 

今となっては、もう両親に確かめることは出来なくなってしまいましたが、

このレコードは、自分がちょうど生まれた頃に買ってくれたものだと思います。

ジャケットには「Sleepy Time Songs」とあり、

レコードA面は子守歌を主体にした眠りをさそう音楽です。

反対に、B面は目覚めのための元気いっぱいな曲が並んでいるんです!

B面の中の1曲「The Old Chisholm Trail」がずっと心の中に残っていた曲なんですね。

もちろん、曲名が分かったのも今日が初めてです!

調べて初めて分かったんですが、

この歌は、アメリカ西部開拓時代の明るく楽しく元気な歌、

カウボーイ達の陽気な歌なんですね!

歌の中の

Ti yi youpy, youpy yea, youpy yea

Ti yi youpy, youpy yea

は牛追いの時の掛け声らしいです!

The Norman Luboff Choir の元気で陽気な男性コーラスを聴いてみて下さい!

https://youtu.be/QMro5fP4e4s?t=1271

父が所有していた1954年録音フランチェスカッティのメンデルスゾーン

 自分の生家は、父最初の勤務地の社宅だった長崎県西彼杵郡崎戸町(崎戸島)のアパート4階でした。

自分が生まれた時、そこの一室には電蓄(電気蓄音機つまりレコードプレーヤー)が既に置いてあり、音楽好きだった父は良くレコードをかけていたようです。

赤子のための音楽、クリスマスでかける曲等と一緒に、クラシックのレコードがかなりあることに後になって気付き、自分は中学生の頃からその世界にのめり込んでいきました。

その中の1枚が、このフランチェスカッティ独奏のLP盤でした。

メンデルスゾーンとチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲

バックはミトロプーロス指揮のニューヨークフィル

1954年モノラル録音のコロムビア盤でした。

当時のLPレコードのヴァイオリン協奏曲では、この2曲はゴールデンカップリングで、メンチャイコン等とも呼ばれていました。

 

特にメンデルスゾーンの方は、今でも自分にとって最高の演奏なんです。

この演奏での驚きは、第一にフランチェスカッティのヴァイオリンの音色です。

むせび泣くような独特の艶のある音色、そして音量も常に大きめ、歌い回しも繊細と言うより一筆書きで一気呵成に表現するようなスタイルだと思います。

これだけでも他にない特徴ですが、さらにこの曲としては、テンポが非常に速くダイナミックな演奏の部類に入ると思います。

第1楽章からきわめて情熱的。

カデンツァも第2楽章さえも切羽詰まったような熱を帯びています。

第3楽章でようやくエネルギーが外に解放されるよう!

後で聞いたどの演奏もこの盤とは全く違っていて戸惑うほどでした。

  https://www.youtube.com/watch?v=1czSsjqqPcw

 

 この演奏から自分が思い起こすことは

当時の人たちが活躍していた、父がエネルギッシュに頑張っていた、昭和30年代40年代の世の中の勢い、そして元気で健全な精神。

これらのこととこのような演奏が全く同期していると強く思うんです。

 

このレコードを目の前にしてこの演奏に耳を傾けると、当時のことが鮮やかに蘇ってくるように感じます。

 

 ちょっと話はそれますが、

当時の人たちは、

前を向いて、常に上昇志向で、毎日を明朗に元気に生きていた。

しかも、前のめりのスタイルだったのに、心があったんです。

温かく包み込む優しさがいたるところにありました。

両親家庭はもちろん、地域社会にも。

 

あ、当時の自分は、こんな風には全くと言っていいほど頑張れていませんでした・・・

でも、周りの人たちや社会がそうだったということは、しっかりと心に身体に刻み込まれているんです。

そして、そんな中でも人一倍明るく元気だった父親の笑顔を誇らしく思い出します。

5人家族をグイグイと引っぱって行ってくれた父の姿が蘇ってきます。

 

不思議な気持ちです。

これほど父親に逆らった子は自分だけでしたから。

でも、父がくれた愛情を、疑ったり否定したりするということはあり得ないということも確かです。

明日最後のお別れを言って、父を見送りたいと思っています。 

ホロヴィッツのライヴ「キエフの大きな門」

 ウラディミール・サモイロヴィチ・ホロヴィッツは、

1903年、ウクライナに生まれた大ピアニストです。

ホロヴィッツ編曲、演奏の「ムソルグスキー展覧会の絵」の録音が残っているんですが、これが唖然とするほど凄い!

他に比較するものがないほど素晴らしい生命力に満ち溢れた演奏なんです!!

ホロヴィッツの1951年カーネギーホールでのライヴ録音をぜひ聞いて欲しいと思い、

この録音から「バーバヤガーの小屋、キエフの大きな門」のリンクを貼らせていただきました。

 https://youtu.be/aw6qOVHChLs?t=1307

 

ウクライナの全ての方々、そして国としてのウクライナに、

この曲の終曲「キエフの大きな門」のように、勝利と解放が必ずや訪れますよう、

強く祈っています!

ハンス・ツェンダー指揮のシューマン交響曲第2番(1)

 先週、自分としては驚きの経験がありました。

ヤフオクで入手したブラームスの交響曲全集ですが、予想をはるかに超えて素晴らしい演奏でした!

スタニスワフ・スクロヴァチェフスキー指揮ハレ管弦楽団の演奏のものでした。

奇をてらわず、ていねいにていねいに自分のために音楽してるような演奏。

かと言ってこじんまりまとまってしまっているのではなく、響きにも充分な厚みがあり、充実感たっぷりの内容でした!

特に地味になりがちな第3交響曲が味わい深くしかも力強く仕上がっているのですから、本物の演奏と言っていいと思います!

2つの序曲とハイドン変奏曲も素晴らしかった!

(これは全く自分の感想です! 世評とかどうなのかは知りません)

このブラームスに関しては、いずれ書けるといいのですが、実はこれから書きたいことは別のことなんです。

この演奏に感激して、「そうだ!スクロヴァチェフスキーのシューマンはどうだろう?」と Youtube や Amazon music を使って探してみました。

 

 シューマンの交響曲は演奏が難しいと昔から言われてきました。

その難しさですが、「重厚な響き効果的な響きを引き出す演奏が難しい」というものです。

カラヤンはオーケストラをたっぷり鳴らした録音を残していて、自分が10代の頃はカラヤンのような演奏でないと「シューマンの交響曲は重厚に響かない」と植え付けられていたし、自分でもそう思い込んでいました。

カラヤン指揮の恰幅のいい第4交響曲の演奏はLPレコードでも繰り返し聴いてきました。

シューマンの交響曲を「鳴りっぷりを良くする」ために、元の楽譜に手を加えて演奏する行為は昔からしばしば行われてたようです。

これに関してはマーラーの編曲が有名で「マーラー版」が存在しているんですが、ワインガルトナーやトスカニーニといった大指揮者も独自に楽譜に手を加えていたそうです。

 

 さて、シューマンの4つの交響曲の中で最も地味なのは第2番だと思いますが、するとこの第2番を上手く聴かせるのはより難しいのではないかと思うんです。

そして、自分も充分に馴染んでいなかったのがこの第2番でした。

ということで、スクロヴァチェフスキーの指揮でまず第2交響曲を聴いてみました。

このあと、自分の大好きな第4番、第3番と聴き進んでいこうと思ったんです。

(続く)

 

 この第2交響曲の深々とした素晴らしい第3楽章 Adagio espressivoをぜひ聴いてみて下さい!

クリストフ・エッシェンバッハ指揮の演奏です。

https://www.youtube.com/watch?v=Yvrki7nJIKo&list=PLexwM939sM9boKHCbEl9zRPlEc3thfD-z&index=7

 

PS.題のハンス・ツェンダーについてはまだ書いていません。

ヤフオクで手に入れたいCDはTポイントで!

 廃盤になったCD、流通量が少なかったCD、あまりCDを作っていないと思われる国のCD、時には海賊盤CD・・・

これらはAmazonで探すと沢山見つかります。

さらに原語で検索すると、importCDだけでなく、イギリス、アメリカ、ドイツなどのサイトに行きつくこともあります。

この国外サイトの中で「Deliver to Japan」となっているCDがあれば、購入は比較的容易です。

レアな音源だと、そこまでしないと手に入らない物があるんです。

特に、器楽曲や室内楽とかになると、オーケストラものに比べてとたんに探すのが難しくなります。

 さて、ヤフオクやメルカリでも中古CDを結構楽しく探せます。

こちらは、国内盤CDで流通が少なかった物とか、セット物がバラで出品されていたりとか。

先週、FM放送で耳にした、林光作曲「ギター協奏曲 北の帆船」の室内楽版のCDをヤフオクで入手したんですが、これはカード決済で支払いました。

そんなことをしているうちに、数百円の安くて面白いCDがいくつも見つかりました。

再度支払い方法を見てみると、paypayやTポイントが使えるではありませんか!

嬉しくなって、現在CD6枚ほどの落札に参加しています。

・スクロヴァチェフスキー指揮ハレ管弦楽団の、ブラームス交響曲全4曲

・マッケラス指揮の、シベリウス交響曲第2番

・セルゲイ・スタドレル独奏の、チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲

・ミトロプーロス指揮ニューヨークフィルのショーソン交響曲(1953年録音)

 

凄く楽しみなんですが、とっても大切なことを忘れないようにしないといけません!

「CDが届くけど、支払いは全部Tポイントだからね!」

って、カミさんに伝えておくことです!(笑)

Let it be

 先日、突然テレビ番組の中でビートルズの「Let it be」が流れました。

本当にいいですよね・・・!

生き方の原点を見つめ直させる曲の一つのようにも聴こえます。

そして、歌詞や曲の意味を全く知らなくてもすごくいい音楽だと思いませんか?

この曲のこと何か書こうと思いましたが、やっぱりうまく書けません。

みなさんおなじみですが、オリジナルのリンクを貼っておきます!

 https://www.youtube.com/watch?v=eOXDt1XvHgY

イヴはブリテンの「キャロルの祭典」を聴いて欲しい

 昨年と同じになるんですが、やは今夜はこの曲を紹介したくなるんです。

Benjamin Britten 「A Ceremony of Carols」 

今日は、Youtube のこの演奏を聴いてみて下さい。(本当に残念ながら広告が入ってしまうんですが)

  https://www.youtube.com/watch?v=KSt1Zljnql0

 まさに天から響いてくる歌声。

その声がはるかかなたから近づいてくるんです。

そして、あぁ、こんな音楽があるんだ・・・というような別世界の音楽をいくつも届けてくれます。

そんな中に、意志的な力強さを感じさせる曲もあるんです。(This little Babe)

そして最後は、この歌声ははるかかなたに消えていきます・・・

バルトーク ピアノ協奏曲第3番

 以前紹介したPrimeseatベルリンフィル配信で、バルトークの第3ピアノ協奏曲、それにステンハンマルの第2交響曲がブロムシュテットの指揮で聴けるというので、心待ちにしていました。

昨年、2曲とも48kHz24bit 配信が行われ、バッチリ全曲録音させてもらいました!

どちらの曲も、力で押すような演奏だと台無しになってしまう曲だとすごく思っています。

特にバルトークの方は、死の床にあった作曲者が協力者の応援を得ながら、最後の力を振り絞って書き続けた曲なんです。

このデリケートな陰影に富んだ音楽を、ちょっとでも力任せに演奏して欲しくない!

 バルトークは、息子に次のように手紙に書いています。

 

 私はお前の母さんのためにピアノ協奏曲を書くつもりだ。

長い間計画が宙に浮いていたものだ。

もしこれを彼女が3、4カ所で演奏できたら、私が断った委嘱作1作分くらいのお金にはなるだろう。

 

 この第3協奏曲が、優れたピアニストであった妻への誕生日プレゼントになるように、とも考えていたようです。

この曲の作曲当時のバルトークは、白血病の末期段階を迎えていたのですが、本人が自分の健康状態をどこまで自覚していたかどうかは分かっていない、と言われています。

いや、彼ははっきりと分かっていたと思います。

白血病の辛さは最近の報道でも知られている通りだし、彼が病名を知らされていなかったとしても、死期を感じていなかったとは考えにくいでしょう。

そう推測させる根拠があります。

この曲の草稿には、最後のページに "vége"(ハンガリー語で「おしまい」)と書き込まれているんです。

病の苦しさと闘いながら、「やっとこれで最後だ!」

この曲も、作曲の仕事も、そして自分も ・・・ これで終わりなんだ、と。

スケッチを完成させた夏頃から急速に健康の悪化したバルトークは、

家族や知人の作曲家らに手伝ってもらい、病床で必死にオーケストレーションを続けました。

しかし、完成まであとわずかの9月に病院に担ぎ込まれ、作業は中断したまま、数日後ついに帰らぬ人となってしまうんです。

文字通りの絶筆になってしまいました。(その後、協力者たちによってこの曲は補筆完成されています) 

 

 実は、たった今、Primeseat でこの曲の配信を聴きながら書いています!

前回と同じピアノ独奏はアンドラーシュ・シフ、それにブロムシュテット指揮ベルリンフィルの演奏で、今日の最後のメインはブラームスの第1交響曲なので、前回とは別の演奏会かもしれません。

 バルトークと言うと、いかにも難しくとっつきにくく、またピアノ協奏曲第2番などは過激で攻撃的と言える興奮を煽り立てるような音楽なんです。

そんな音楽を書いてきた人の最後の作品がこんなに simple になるとは・・・

とても同じ人が書いた音楽とは思えない・・・

 

 この曲を紹介する時、自分だったら、「まずは、第1楽章の終わりのところから第2楽章全部を聴いてみて下さい」と言うと思います。 

 https://www.youtube.com

 この曲の第2楽章を、夏の夜に明かりの周りを飛び交うかげろうに例えている評論家がいました。

 

 翌朝には一生を終えるかげろうが、最後の夜に小さいながらに力を振り絞って優雅に飛び回っている。

最後に一瞬の輝きを放って儚く散っていく命・・・

 

自分はこのこじんまりした華やかさと儚さをいつも頭に浮かべてしまいます。

そして、特に、第2楽章の終結部。

こんなシンプルな楽章の、そして最後のたった2つの和音がどうしてこんな表現力を宿しているのでしょうか・・・

 https://www.youtube.com