音楽日記 自分の言葉で書いていきたい!

音楽日記

小澤征爾さんを偲ぶ(4) 続・N響事件の真相

 この騒動がなければ、小澤さんは日本で安泰の指揮者生活を送り、

「世界のオザワ」にはなれなかったかもしれない。

というのも、このあと、小澤さんは、北米で素晴らしい仕事を次々と成し遂げるのです。

シカゴ交響楽団を振り、さらにトロント交響楽団指揮者、サンフランシスコ交響楽団音楽監督に就任する。

 

 ある音楽ジャーナリストは、この時期の小澤征爾が大好きだという。

「日本は自分を見限ったとの思いがあるのか、ふっきれた、若々しい演奏ばかりです。

そもそも、海外のメジャーオーケストラのLPジャケットに、堂々と顔が載る日本人なんて、このとき初めて見ました。

特に、サンフランシスコ交響楽団の「パリのアメリカ人」のジャケットは、まるで当時のヒッピー風ファッション。

アメリカではこんな服装で指揮しているのかと驚いたものです。

トロント交響楽団の「幻想交響曲」、演奏はものすごい熱気。

 

 

その後、小澤は1973年にボストン交響楽団音楽監督に就任し、2002年まで務めることになる。

ウイーンフィル ニューイヤーコンサートへも登壇、

ウイーン国立歌劇場音楽監督もつとめ、

いわば世界クラシック界の頂点に立った。

しかし、その原点はN響事件だったともいえるのだ。

 

「N響事件は、多くの文化人やマスコミが、様々な見方で論評しています。

そのなかで、もっとも正鵠を射ているように思うのが、

小澤さんの恩師で、当時、桐朋女子学園校長だった生江義男さんの論考です」

生江義男は、通信簿や入学筆記試験を廃止し、のちに桐朋学園理事長をつとめる名物教師だ。

その生江校長が、事件の最中に

『小沢君の音楽を聞いて下さい 一教師のねがい』と題した文を、朝日新聞に寄稿している。

 

 1952年、桐朋女子高校に「男女共学」の音楽科が創設された。

【それまでの女子だけの学園に男の子がはいってくるということは、PTAの間に大きな波紋をまきおこした。

そうした最中に、小澤君はおかあさんに連れられて受験にやってきた】

生江校長は、面接で、女子高に初めて男子が入ることの大変さを説明した。

すると、

【彼は、おかあさんの方をかえりみながら、舌をペロリとだしてうなずいた】

という。

【それからの音楽科は、ある意味で彼を中心に動いたといっても過言ではない。

しかし、よくいたずらもした。

遅刻もまた常習だった。

たのまれれば、いやとはいえない彼の性格は、よく友だちのことまでひきうけては問題になった。

注意されると、ニッコリ笑って手を頭にあげて恐縮する。

が、信念を貫くときの彼の行動は、いかにも自信満々としている】

 遅刻の常習、頼まれればいやとはいえない、そして自信満々な高校生・・・

生江校長は

【いま、NHK、N響に対しての、彼の言動は、学生のころと少しも変わりはない】

として、こう綴るのだ。

【どうして、N響の先輩の人びとが、愛情のこもった苦言や、指導をしてくれなかったのだろうか。

おそらく、彼は、ニッコリと笑って、手を頭にあげて恐縮したかも知れない。(中略)

若き天才としての小澤と同時に、

人間的にも、芸術的にも未完成な(それだけに無限の未来が予約されるのだが)小澤の両面を、

分けてとりあげたところに、今度の問題が胚胎していたのではないだろうか】

 

「N響事件の本質は、これに尽きると思いました。

まだ世の中を知らないような青年を招いた以上、N響は、その責任を負うべきだったのです。

オーケストラは教育機関ではないといわれればそれまでですが、

だったら、呼ぶべきではありませんでした。

ある意味、このときの小澤さんは、未熟な日本クラシック界の犠牲者だったのではないでしょうか

 

 生江校長は、一文の最後を、こう結んでいる。

【日本での新しいプラスを小澤君に背負わせて、もう一度、彼を世界の舞台にたちもどらせてほしい。

私の願いはこれにつきる】

 

 この事件のさなかでさえ、生江校長のような温かい理解者はいらっしゃったんですね!

このあと、世界トップクラスの指揮者となった小澤征爾は、

多くの音楽ファンと共に、最後までこのような理解者に囲まれていたんじゃないかと感じています。

そして、サイトウキネンオーケストラ、セイジオザワマツモトフェスティバルは、

彼の遺志を未来永劫引き継ぎ、活動していくと表明しています。

そして、彼が館長と音楽監督を務めた水戸芸術館、水戸室内管弦楽団も。

彼の志は亡くなってはいないのです!