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「必ずあそこにいる」 90歳の父は今も息子の帰りを待つ

2025年3月11日 20時40分

 14年が過ぎても、家族の帰りを待つ人たちがいる。

90歳を迎えた父親は長男を捜し続け、ある場所の捜索を求めてきた。

「息子は必ず、あそこにいる」。

自分に残された時間は長くないと分かっているが、諦めることはできない。

 

岩手県陸前高田市の広田湾岸に、広さ約9万平方メートルにも及ぶ県内最大の湖沼「古川沼」がある。 

すぐ横には、かつて7万本の松が並んだ景勝地・高田松原があった。

2011年3月11日の東日本大震災は、そんな水辺の景色を一変させた。

市内には18メートル近い津波が押し寄せ、高田松原は「奇跡の一本松」を残して消失。

古川沼と広田湾を隔てていた砂州も流失し、沼と海が完全につながった。


沼には、損壊した家屋の建材や家財道具、自動車などが大量に流れ込んだ。

陸前高田では岩手県内最多の1600人以上が犠牲になり、200人余りが今も行方不明。

「沼には不明者の手掛かりがあるはずだ」

市民がそう考えたのは自然な流れだった。

 

吉田税さん(90)は、古川沼の徹底した捜索を求め続けてきた。

長男・利行さんは、市中心部で津波に流されたとみられるが、今も見つかっていない。

 

利行さんは震災当時43歳で、市内の商工団体で事務局長を務めていた。

あの日は、古川沼から北に1キロほど離れた市民会館で、団体が主催した集会を終えた後だった。

地震後の足取りははっきりしないが、

市民会館の北隣にあった市役所で、利行さんがお年寄りを抱えたり背負ったりして階段を駆け上がっていたという証言がある。

市役所は3階まで浸水したが、屋上に逃げた人は間一髪で難を逃れた。

 

利行さんに救われたという高齢者は

「あんな若い人が被災して私が助かるなんて」

と吉田さんの前で泣き続けた。

息子には幼い頃から

「困っている人は助けないといけない」

と教えてきた。

「てんでん各自で逃げれば良かったんだが・・・

俺が悪いんだ」

吉田さんはそう自分を責め続けている。

 

利行さんは、幼い頃からやんちゃで、子どもたちのリーダー的存在だった。

運動も得意で、幼い頃から野球に親しんだ。

商工団体で働く傍ら、地元の中学校で野球部のコーチも務めた。

「俺の心の中では、今も生きているんだ」

活発で優しかった息子のことを、片時も忘れたことはない。

 

 

震災後、利行さんのかばんが発見されたことを機に死亡届を出したが、

何とか見つけたい、という思いは今も変わることはない。