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2024年2月の記事一覧

小澤征爾さんを偲ぶ(3) N響事件の真相

 小澤征爾は、1948年成城学園中学校に入学。

中学ではラグビー部に所属する傍ら豊増昇にピアノを習う。

当時はピアニスト志望だったが、

ラグビーの試合で、右手人指指骨折の大怪我を負いピアノの道を断念。

小澤が、ピアノを諦めようとした時、

「指揮という道もあるよ」

と言って、新しい道を拓いてくれたのも豊増昇だった。

齋藤秀雄の指揮教室に入門したため、

1952年、齋藤の肝煎りで設立された桐朋女子高校音楽科へ第1期生として入学。

当時、癇癪持ちの齋藤から、指揮棒で叩かれたりスコアを投げつけられたりするなどの体罰を日常的に受けていたため、

あまりのストレスから自宅の本箱のガラス扉を拳で殴りつけ、大怪我をしたこともあった。

1955年、齋藤が教授を務める桐朋学園短期大学へ進学。

1957年夏に同短期大学を卒業。

4月に卒業できなかったのは、肺炎で卒業試験が受けられなかったためであり、

のちに追試を受けて卒業が認められたが、

療養期間中には仲間がどんどん仕事をしたりマスメディアに出演したりするのを見て、焦りと嫉妬に苦しんだという。

このとき父から

「嫉妬は人間の一番の敵だ」

と言われて嫉妬心を殺す努力をしたことが、後になって大変役立ったと語っている。

1957年頃から、齋藤の紹介で群馬交響楽団を振り始め、群響の北海道演奏旅行の指揮者を担当。

12月には、日本フィルハーモニー交響楽団にて、渡邉暁雄の下で副指揮者を務める。 

1958年、「フランス政府給費留学生」の試験を受けたが不合格となる。

しかし、成城学園時代の同級生の父である水野成夫たちの援助で渡欧資金を調達。

1959年2月、スクーター、ギターとともに貨物船で単身フランスに渡る。

このとき、小澤というアシスタントを失うことを恐れた齋藤から渡欧について猛反対を受けたが、

桐朋の父兄会や水野成夫たちの支援を得て、1200ドルの餞別を受けた。

同年、パリ滞在中に第9回ブザンソン国際指揮者コンクール第1位。

ヨーロッパのオーケストラに多数客演。

カラヤン指揮者コンクール第1位。

カラヤンに師事。

1960年、アメリカ、ボストン郊外で開催されたバークシャー音楽祭でクーセヴィツキー賞を受賞。

シャルル・ミュンシュに師事。

1961年ニューヨークフィルハーモニック副指揮者に就任。

レナード・バーンスタインに師事。

同年ニューヨークフィルの来日公演に同行。

カラヤン、バーンスタインとの親交は生涯に渡り築かれた。

 

 小澤征爾とNHK交響楽団が初めて顔合わせしたのは、1961年7月。

翌年には、半年間、客演指揮者として契約。

さらに12月まで契約期間が延長された。

7月には、作曲者メシアン立ち合いのもとトゥーランガリーラ交響曲日本初演を指揮した。

小澤とN響のコンビは順調に活動しているかのように思えたが、

10月の香港を皮切りとするシンガポール、マレーシア、フィリピン、沖縄への演奏旅行で

N響と小澤の間に感情的な軋轢が生じ、11月の定期公演の出来ばえが新聞に酷評された。

直後、N響の演奏委員会が

「今後小澤氏の指揮する演奏会、録音演奏には一切協力しない」と表明する事態となってしまった。

 小澤とNHKは折衝を重ねたが折り合わず、

N響の理事は小澤を「あんにゃろう」と罵り、N響は小澤に内容証明を送りつけ、

小澤も1962年12月、NHKを契約不履行と名誉毀損で訴える事態となった。

このため、12月20日、第435回定期公演と年末恒例の「第九」公演の中止が発表された。

 

 このトラブルの原因について、小澤が遅刻を繰り返したためという説を八田利一が述べている。

原田三朗もまた、小澤が「ぼくは朝が弱い」と称して遅刻を繰り返し、しかもそのことを他人のせいにして謝罪しなかったのがN響から反感を買った一因だったと述べている。

東南アジア演奏旅行における小澤は、ホテルのバーで朝の6時半まで飲み明かした状態で本番に臨み、

マニラ公演で振り間違いを犯して演奏を混乱させ、コンサートマスターの海野義雄らに恥をかかせた上、

「38℃の熱があった」「副指揮者が来なかったせいだ」

と虚偽の弁解を並べて開き直ったためにN響の信頼を失ったといわれている。

ただし小澤自身は、

「副指揮者なしで、孤軍奮闘したぼくは、酷暑のこの都市で、

首の肉ばなれのため39℃の発熱をし、ドクターストップをうけた。

このような状態で棒をふったために、些細なミスを冒してしまった。

しかし、演奏効果の点では、全く不問に附していいミスであったとぼくは思う。

それを楽員の一部の人たちは、ぼくをおとし入れるために誇大にいいふらし、あれは仮病であるとまでいった」

と反論している。

 後年、1984年の齋藤秀雄メモリアルコンサートを追ったアメリカのテレビドキュメンタリーで、小澤はこの事件の背景について

「僕の指揮者としてのスタイルはアメリカ的で、いちいち団員に指図するやり方だった。

でも日本での指揮者に対する概念はそうではない。

黙って全体を把握するのが指揮者だ。

この違いに加えて僕は若造だった」

との趣旨の発言で振り返っている。

しかし原田三朗はこの見解を否定し、

「アメリカで育ったような小澤の音楽と、

ローゼンストック以来のウィーン楽派とシュヒターのベルリンフィル的な訓練に慣れたN響の音楽観のちがいが紛争の原因だという見解が、当時支配的だった。

楽団員は若い指揮者をそねんでいるとか、もっとおおらかでなければならない、

などという意見も強かった。

しかし、本当の原因はそんな立派なことではなかった。

遅刻や勉強不足という、若い小澤の甘えと、

それをおおらかにみようとしない楽団員、

若い指揮者を育てようとしなかった事務局の不幸な相乗作用だった」

と述べている。

この時、小澤が病気と称してN響との練習を休んだ当日、

弟の幹雄の在学する早稲田大学の学生オーケストラで指揮をしている姿を目撃された事件もあり、

N響の楽団員の間では小澤に対する反感と不信感が募っていった。

 

 この事件はN響にとどまらず政財界を巻き込む社会問題に発展し、

青柳正美、秋山邦晴、浅利慶太、安倍寧、有坂愛彦、一柳慧、石原慎太郎、井上靖、大江健三郎、梶山季之、曽野綾子、高橋義孝、武満徹、谷川俊太郎、團伊玖磨、中島健蔵、黛敏郎、三島由紀夫、村野藤吾、山本健吉、由起しげ子が

「小澤征爾の音楽を聴く会」を結成し、

NHKとN響に質問書を提出すると共に、

芥川也寸志・武満徹・小倉朗といった若手音楽家約10名が事件の真相調査に乗り出した。

小澤は、活動の場を日本フィルに移し、

翌1963年1月、日比谷公会堂における「小澤征爾の音楽を聴く会」の音楽会で指揮。

 

 三島由紀夫は『朝日新聞』1月16日付朝刊に

「熱狂にこたえる道 小沢征爾の音楽をきいて」という一文を発表した。

 

 日本には妙な悪習慣がある。

『何を青二才が』という青年蔑視と、

もう一つは『若さが最高無上の価値だ』というそのアンチテーゼ(反対命題)とである。

私はそのどちらにも与しない。

小澤征爾は何も若いから偉いのではなく、いい音楽家だから偉いのである。

もちろん彼も成熟しなくてはならない。

 今度の事件で、彼は論理を武器に戦ったのだが、

これはあくまで正しい戦いであっても、

日本のよさもわるさも、無論理の特徴にあって、論理は孤独に陥るのが日本人の運命である。

その孤独の底で、彼が日本人としての本質を自覚してくれれば、

日本人は、

亡命者的な『国際的芸術家』としての寂しい立場へ、彼を追いやることは決してないだろう」

「私は、彼を放逐したNHK楽団員の一人一人の胸にも、

純粋な音楽への夢と理想が巣食っているだろうことを信じる。

人間は、こじゅうと根性だけでは生きられぬ。

日本的しがらみの中でかつ生きつつ、

西洋音楽へ夢を寄せてきた人々の、その夢が多少まちがっていても、

小澤氏もまた、

彼らの夢に雅量を持ち、この音楽という世界共通の言語にたずさわりながら、

人の心という最も通じにくいものにも精通する、真の達人となる日を、私は祈っている」

・・・

このように述べた。

 

 結局、1月17日に黛敏郎らの斡旋により、

NHK副理事の阿部真之助と小澤が会談し、これをもって一応の和解が成立した。

 しかし

「あの時は『もう俺は日本で音楽をするのはやめよう』と思った」

ほどのショックを受けた小澤が、次にN響の指揮台に立ったのは32年後のことであった。

小澤は後年、

「N響とのトラブルが刺激になって、よく勉強した」とも述懐している。

 

1995年1月23日、サントリーホールにおいて小澤とN響は32年ぶりに共演を果たした。

このコンサートは、日本オーケストラ連盟主催による、

身体の故障で演奏活動が出来ないオーケストラ楽員のための慈善演奏会であった。

チェロ独奏にはロストロポーヴィッチを迎えての演奏である。

曲目は、

 バッハ G線上のアリア(阪神淡路大震災犠牲者追悼)

 バルトーク 管弦楽のための協奏曲

 ドヴォルザーク チェロ協奏曲

  バッハ 無伴奏チェロ組曲第2番サラバンド(阪神淡路大震災犠牲者追悼)

なお、小澤は、このコンサートを引き受けた理由として

「(N響事件を知る)昔の楽団員が退職したり亡くなったりしていなくなったから引き受けた」

という趣旨の発言をしている。