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三たび、日韓関係のこと

 正論から外れても感情第一で抗議しているように見える韓国、常に冷静に理屈で対応しようとする日本、という構図に見えます。

そんな中で、マスコミは何か材料が見つかる度に「そらっ!韓国が悪い!」と焚きつけているような気がします。

また、識者が「過去を正しく見つめ直そう」と提案しても、「なに? お前は非国民だ!」という反応の風潮を感じます。

今回、日本と韓国がこのような状況に陥ってしまいましたが、

どちらが悪いのか? ということではなく、日本が過去の歴史を正しく見つめ直す機会になるんじゃないか、と思うんです!

さらに自分は、韓国側が「なりふり構わず気持ちをさらけ出してきている」と感じています。

まるで子供のケンカのように見えるかもしれませんが、自分には「気持ちだけは分かってくれよ!」という叫びにも聞こえるんです。

ケンカしたあとで裁きが下されても、最後は、お互いの気持ちの部分だけは分かり合いたいじゃないですか!!

 

在韓の日本人の方の発言を以下に載せたいと思います。

自分にとっても、すごく考えさせられる内容でした。

 

<侵略の事実を直視しよう> 戸田郁子

 =過ぎた時代にあった侵略の事実を、そのままにみせること=

 それこそが韓国で近代史を学び、日韓の狭間に生きる私の役割だと自覚している。

韓国に住む日本人にとって、居心地の悪い日が1年に2度めぐって来る。

日本が第2次世界大戦に敗れ、植民地コリアが解放された8月15日と、1919年に大規模な抗日独立運動が起きた3月1日だ。

それにしても、韓国で年間16日ある祝日のうち2日が、日本の侵略と植民地支配にまつわるというのは、かなりの頻度ではないか。

日本に侵略された歴史を、忘れまいとするのが韓国だ。

しかしその時代を、負の歴史としてばかり考えるのだったら、決して愉快なことではない。

だからこの国の歴史教育の現場ではとくに、「抗日」や「独立」が強調されるのだろう。

  韓国に暮らして四半世紀が過ぎた。

実は8月の日本の雰囲気が、どうも苦手だ。

広島(6日)、長崎(9日)の原爆投下の日の追悼式典、そして8月15日の戦没者慰霊の式典まで、苦難の時代にたくさんの国民が犠牲になったという話が繰り返される。

まるで日本が、戦争の被害者だったかのように。

韓国人がこの様子を見たら、さぞ気分を害すに違いないと思うからだ。

韓国人の抱く日本人のイメージは、この30年ほどで明らかに変化した。

私が韓国に留学していた80年代には、日本人として描かれるキャラクターは決まって、ちょびヒゲをはやして制服を着た巡査や軍人だった。

コメディー番組にも、善良な朝鮮人をいじめる日本人地主や悪徳警官が登場した。

皆が笑いながら見ているその隣で、私はいつも身をすくめていたものだ。

今では、そういう短絡的なイメージは激減した。

1988年のソウル・オリンピックの後に韓国人の海外渡航自由化が始まり、日本に出かける人が増えたことが原因だろう。

韓国人が自分の目で見た日本人は、乱暴でも傲慢でもなく、親切で礼儀正しかったからだ。

しかし韓国人が不可解に思うのは、電車が揺れて足を踏んだくらいでもすぐに謝る日本人が、なぜ韓国を侵略して申し訳なかったとは言わないのか、ということ。

理解に苦しむ韓国人は、日本人は、「羊の皮をかぶった狼」ではないかと危ぶむのだ。

 

 =日本であまり教えない近現代史=

 私も、数多くの韓国人にそんな質問を受けた。そのたびに、こう答える。

「恥ずかしい話だけど、日本では侵略の時代の歴史を学校でほとんど教えないから、知らない人が多いのよ」と。

「なぜ?日本では国史を勉強しないの?」

「するけど、古代から始まって明治維新(1868)や、せいぜい大正デモクラシー(1910、20年代)までくると、もう時間切れになるから」

 韓国の高校では数年前まで、「国史」とは別に「近現代史」という科目があった。

今はその区別がなくなったが、どの時代に重点を置いて教えるかという方針は、学校ごとに決められるのだと、高校の歴史教師に聞いた。

「日帝(日本帝国主義)時代」と呼ばれる近代史は、現実の生活につながる部分が多いため、この時代に比重を置いて教える学校が多いという。

かたや、その時代のことを教えない日本・・・

これでは、日韓の歴史認識の差は、広がるばかりではないか。

 いま、私は、近代の痕跡の色濃く残る港町・仁川に住み、90年前に日本人が建てた家を改造して、ギャラリーを営んでいる。

ここはかつて、日本人租界と呼ばれた場所だ。

戦後70年の節目を迎えるこの8月には、「資料で見る日帝侵略史展」を開催した。

過ぎた時代にあった事実を、そのまま見せること。

それこそが韓国で近代史を学び、日韓の狭間に生きる私の役割だと自覚している。