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また明智光秀のこと

 昨日、駿河太郎さんの記事が出ているのを見かけました。

駿河太郎さんは笑福亭鶴瓶さんの息子だと知ってビックリ!

親が大きな存在だと、その子は親の存在によるプレッシャーで抑圧されていると良く言われます。

駿河さんがどうなのかは良く分かりませんが、自分は、誰であっても、「お父さんお母さんと似てないねぇ~!」と言われるくらいその人自身であって欲しいと強く思うんですね!

親を否定するとかそういうことでは全然ありません。

一人の人間の中にはその人だけの心があるんです。

それは親や兄弟に似ているところはもちろんあるでしょう。

でもその心は、色々な要素が組み合わさり、さらにその人だけの感性がミックスされた、まさに一つだけのものなんです!

 

 さて、駿河さんは大河ドラマ「麒麟がくる」の中で明智光秀の与力である筒井順慶の役を演じました。

光秀に恩を受けていたのに、本能寺の変の後の山崎の合戦で、光秀からの参戦への誘いを断ったんでしたね。

細川藤孝も同様に光秀には味方しなかった訳で、この2人が光秀に加勢していたら! そうして欲しかった!

と、明智光秀のファンはとても悔しく思っているはずです。

もちろん自分もそうです!

 しかし冷静に考えてみると、たくさんの家族や親族を持つ主の行動が失敗してしまうと、家族親族は皆殺し、お家は断絶ということになり、主一人の問題では済まなくなってくる訳です。

ですから、謀反後のプランがはっきりとしていなかったと言われている光秀の味方にはつけなかったとも考えられています。

細川藤孝が出家してしまったのも「光秀殿、申し訳ない」という気持ちの表れなのかもしれません。

光秀の娘たまを藤孝の息子の忠興の嫁にもらっている仲だったんですから。

筒井順慶にもかなりの迷いがあったように書かれています。

また、足利義昭も正親町天皇も、本能寺の変の後明智光秀を助けようとしたとはどこにも書かれていないようです。

「麒麟がくる」では、世の流れを冷静に眺めてどちらが得なのかを見極めようとする多くの人たちの中で、損得を考えずにひたすら純粋に行動した光秀という設定で描かれていたのではないでしょうか?

「麒麟がくる」を書いた池端俊策さんは、光秀は池端さん自身だと思いながら書いていたそうです。

この本能寺の変とその後の周りの人間の動きって、いつの世の中にも当たり前のようにあるような気がするんです。

そして、多くの人たちは、建前で生きていかなければならない状況の中に居て、明智光秀のような理想を求め純粋に行動した人間に強いあこがれを抱くのではないでしょうか?

自分も、たとえ摩擦を生んだとしても純粋に行動したい! と思ってしまうタイプなんですが・・・