核心は謎のまま 日航機墜落事故から40年 なぜ「不適切修理」は行われた?
2025年8月12日 21時21分
(前略)
123便の事故原因について、アメリカの調査チームが注目したのが、
墜落した123便の過去の修理記録だった。
事故の7年前、
123便の機体は大阪空港で後部を地面に打ち付ける「しりもち事故」を起こし、
機体後部の「ある部分」を損傷していた。
その部分とは「圧力隔壁」と呼ばれ、気圧の低い機体後部から客室を守るお椀型の壁だ。
この圧力隔壁の修理を製造メーカーのボーイングが行うことになった。
修理指示書では、壊れた隔壁の下半分を新品と交換し、
上と下の隔壁の間に1枚の「継ぎ板」を挟んで繋ぎ止めることになっていた。
1枚の「継ぎ板」を使った修理は「よくあることだ」と日米の調査官は言う。
しかし、実際の修理では、
この「継ぎ板」が2つに切断されて使われていた。
1枚の継ぎ板を使った修理と比べて、隔壁をつなぎとめる幅が短い。
加圧された客室側からの力に耐えるには、明らかな強度不足だったのだ。(!)
FAAから日航ジャンボ機墜落の調査に派遣されたトム・スイフト氏は、東京・赤坂のアメリカ大使館にいた。
金属の亀裂が専門の彼は、不適切な修理が航空機に与える影響を分析していた。
隔壁の修理が不適切だった場合、航空機は何回まで飛び続けられるかという「仮説」を立て、
隔壁の耐久性を試算した。
その結果、隔壁の修理から墜落までの推定飛行回数は約1万3000回。
これに対し、123便の修理から事故までの実際の飛行回数は1万2184回だった。
2つの値は極めて近かった。
この試算結果は、隔壁の不適切な修理が墜落事故の原因である可能性を強く示唆するものだった。
NTSBのシュリード氏は、この事実をアメリカ大使館に集まったボーイングの技術者たちに説明した。
その時の様子についてシュリード氏は
「彼らは、かなり落胆していました。
実際、何か起きたのかを悟った時、涙を流す者もいました」
と語っている。
520人の命を奪うことにつながった隔壁の修理ミスは、なぜ起きたのか。
日本の事故調査委員会や警察は、修理ミスの原因解明のため渡米したが、
アメリカ側のガードは固かった。
アメリカでは、航空機事故の場合、
個人の責任追及よりも再発防止に向けた原因の究明が優先されるためだ。
そうした中、TBSは隔壁修理に携わった作業員への取材に成功している。
1978年に隔壁修理のため来日したボーイング社44人の名簿を独自に入手し、取材を行った。
多くが他界していたが、そのうちのひとりの男性が取材に応じた。
「確か、あの時はしりもち事故で、圧力隔壁の下半分を交換したんじゃないか」
フランクな受け答えの一方で、元作業員としての頑固な一面も垣間見えた。
男性は、今でも修理にミスはなく、指示通りに作業をしたと主張している。
「誰が言ったか知らないが、私たちは『継ぎ板』を切ったりしていない。
切ったんじゃなくて、初めから2枚だったんだ」
さらに、板を2つに切ったのではなく、別の板を足しただけだと説明した。
しかし、日本の調査官が撮影した未公開写真には、
2つの板を跨ぐように複数の引っ掻き傷のような痕が写っている。
もともと1枚だった「継ぎ板」が切断されたことを示唆するものだ。
この傷は「継ぎ板」を作る際に出来たものではないかと、撮影した調査官は話している。
またボーイングで事故調査を担当したパービス氏は、
修理ミスの背景について、作業者の名前は明かさずにこう証言している。
「担当者は、ただ隙間を埋めればいいという程度にしか考えていなかった」
修理には、ほかに多くの作業員が関与している。
男性には、修理で使用した「継ぎ板」が実際には切断されて出来たものという認識がなかった。
誰が「継ぎ板」を2枚に切断したか、男性への取材では明らかに出来なかった。
一方、作業をした男性は、
123便の事故原因をめぐって過去の修理が日米で問題視されていた事実を全く知らなかったという。
彼のもとに、そうした情報は届いていなかった。
もしひとりでも、修理ミスに気付いていれば、墜落事故を防ぐことが出来たかもしれない。
男性は、123便の事故について
「悲しいよ。
多くの人が亡くなったんだから、それは悲しい。
でも、事故は起きる。
受け止めるしかない」
と語った。
事故原因の核心は、40年経った今も解明されていないのだ・・・