再び K2で眠る中島建郎さんと平出和也さんのこと
2025年8月11日 01時14分
9日午後、この前見たNHKスペシャルの再放送にまたも釘付けになりました。
「K2未踏のライン 平出和也と中島健郎の軌跡」
この挑戦を前に、涙を流しながら家族のことを語る中島健郎さんの表情と言葉を、もっと深く理解したかったんです。
そして、中島さんの心情を是非妻にも感じてもらいたかった。
2度目の放送を見て、自分はこの前の放送で見落としていることがかなりあったことに気付きました。
この計画を主導してきたように見えた平出和也さんが、テントの中で、
「これは、大変なところに来てしまった」
「行けるところまで行って撤退することを考える」
「生きて帰らなければならないんだ」
はっきりとこのように語って、それが動画に収められているんです。
現地の危険さ、恐ろしさの正確な事実は、その時の彼らだけが身体で分かっていたはずです。
残っている動画を見ただけでも、素人が見ても危険度が半端ないことくらい分かる。
「目の前の雪の壁はいつ崩れてきてもおかしくない。いつ崩れてくるか分からない」
急斜度の中で目の前にはだかるこの雪の壁の映像が、はっきりと映像に残されているんです。
この映像は、単なる記録ではない!
これは、その時この映像を見ていた人たちへのサインだ!
このチャレンジは危険すぎるんだと!
出発前の中島さんの涙、
テントの中での平出さんの言葉、
そして現場の映像、
サインはいくつもあった!
周りが止めるべきだったんだ!
チャレンジャーに期待する私たちも、2人を追い込んでしまったように思えてならない!
自分はそう感じています・・・
以下、登山家で平出和也さんとも親交があった
大石明弘さんのブログから引用させていただきます。
大学4年生の秋。
私たちはチベットのチョ・オユー(8188m)にいた。
遠征をサポートしてくれたのは、お互いの大学だけだった。
7000mでさえも未知の世界だった私は、最終キャンプで高山病になりテントの中に倒れこんだ。
しかし無酸素登頂を目指していていたから、酸素ボンベは持っていなかった。
平出はスープを作り、苦しむ私に飲ませてくれた。
頭は朦朧としていたが、そこから下山しようとは全く思わなかった。
「登ってやる。絶対にやってやる」
そんな言葉しか、頭に浮かんでこなかった。
平出も遠征後に書いた登山報告書に、その時のことをこう書いていた。
「登りたいんだ。登りたいんだ」
翌朝未明、満点の星空の下、山頂を目指して二人で出発した。
気がつくと私たちより高い場所はエベレスト山群だけになっていた。
誰もいない山頂で私たちは、抱き合って喜んだ。
その時私たちが、遠く離れたチベットの山にいることは、日本の誰も知らなかった。
(中略)
平出と中島は、その後も世界の山々を登り続けた。
彼らの登攀方法は「アルパインスタイル」と呼ばれるもので、
軽量化した装備で、一気に壁を登り上がるというものだった。
先鋭的なスタイルだが、彼らはそれを世界の登山家が知らない未踏の壁で行い続けていた。
数々の輝かしい登攀。
栄誉あるピオレドール賞の受賞。
特筆すべきはそんな極限の登攀であっても、ふたりはカメラを携え映像表現をし続けたことだ。
ドローンも駆使した動画は、素晴らしいテレビ番組となった。
人々の心を動かしたのは、その壮大な風景ではなく、
平出たちが本気の挑戦をしている情熱的な登攀シーンだった。
平出の番組はどれも高視聴率をとり、回によっては異例ともいえるほど多くの再放送がなされた。
山に登らない人々までもが、彼らの挑戦に心を打たれ、日常生活を進めるエネルギーに転化していた。
もちろん彼らと同じように、私もふたりから影響を受けていた。
(中略)
だが、K2(8611m)西壁の登攀計画のことが発表されたときの反応は、
私はファンとは違っていたと思う。
登攀予定のラインを見て、直観的に思ったのは、
「これは無理だ」
と言う事だった。
平出の計画したK2西壁のルートは、
壁の「弱点」はついていたものの、氷雪がつながっていない岩の場所が何か所もある。
私は、アラスカのハンター北壁で、そのクラスの難易度の岩を登っていたから、
技術的な難しさは多少なりとも理解できた。
ただそれを、じっとしていても疲労する7000m、8000mの希薄な空気の中で行うというのは、
全く想像がつかなかった。
過去20年で、8000mの難壁をアルパインスタイルで登られた記録は、わずか6チーム。
平出と中島が彼らより劣っているとは思わなかった。
だが、K2西壁は、それらの壁よりも難しいのだ。
しかもK2は8000m後半の「超高所」。
8000m前半とはかなり違う。
K2西壁を二人だけで登れば、世界の登山史を塗り替えるような大記録になる。
しかし・・・
私はすぐに電話をして「大丈夫なのか?」ということを話した。
平出は明るいトーンで、
「そういうことを言うのは、大石さんくらいですよ」
と言った。
そして、
「登山専門のライターさんでも応援してくれるんですよ」
そんな風に続けた。
さらに、
「自分のこれまでの集大成として、行けるところまで登れればいいと思っています」
と、軽い感じで平出は話した。
その短い電話だけで私は、安心してしまった。
平出は登れるところまで登り降りてくるのだ、と。
平出と中島は、静岡に来て講演会をおこなった。
もちろん壇上では言わなかったが、
その時点でも、K2西壁は途中まで登って帰ってくるのだろうと私は思っていた。
しかし講演会を聞いた人々は、今回もふたりは、
「不可能を可能にしてくれる」
と感じていたのだろう。
その後、平出のK2西壁の計画は特設ページが石井スポーツによって開設され、
約40もの協賛メーカーのロゴがならんだ。
しかし私はもともと途中で戻ってくるものと思っていたから、
この時点でも、全く心配していなかった。
恐らくヒマラヤを知る登山関係者も、そう思っていたのではないだろうか?
だが、私を含め、そのことを公に話す人は誰もいなかった。
一方で支援者の多くは、K2西壁完登を願っていたに違いない。
遠征がはじまると、活動記録は平出のインスタグラムを通じ、スタッフにより報告された。
協賛メーカーの商品が必ず掲載されていることは、これまでの平出のインスタとは違っていたが、
これだけ大きなプロジェクトになれば、それも当然の展開なのだろうと思った。
インスタによると現地では天候不順が続いていた。
もうこれはトライどころか、出発もしないのだろうと私は思った。
平出たちのルートはクーロワール(壁の溝状の部分)を通っており、
雪が締まってないと登攀が難しいからだ。
だが、雨がぱらつく中、ふたりはラストトライに向けベースキャンプを出発した。
そしてその3日後、まず海外メディアから遭難のニュースが届いた・・・
「まさか」としか思えなかった。
自分たちがコントロールできるところまで登り、降りてくるはずではなかったのか?
7月30日に救助活動は中止された。
いろんなことを憶測してしまい、紋々とした日が数日続いた。
何度もインスタを見返す。
見えてくるのは悪天候が続いていたことだった。
インスタによると二人は「ラストトライ」前に、6700mまで高度順化のために登っていた。
私には、その高度順化でふたりが、山頂への闘志をみなぎらせたとは、どうしても思えなかった。
ただでさえ完登の可能性が低い最難級の壁に、雪が積もっているのだ・・・
自分の登山経験とも照らし合わせてみた。
「完登」への強い想いがなければ、私は大きな壁には踏み込めなかった。
恐ろしさよりも、美しいラインを引きたいという思いが勝らなければ、冒険的な登攀はできない。
今となっては、平出がどのような気持ちでこの挑戦を始めたのかはわからない。
私に言ったのとは裏腹に「不可能を可能にしよう」と、
計画段階では本気で山頂を目指していたのかもしれない。
だが西壁の現場で、あの降雪では、登頂の可能性は見えてなかったと私は思う。
それでも一大プロジェクトであるがゆえに、
そこで簡単に切り上げることはできなかったのではないだろうか?
「行けるところまで登れれば」
あるいは、
「不可能を可能にする」
という主体的な気持ちは、
「行けるところまで登らなければ」
という義務感に変わっていたのではないだろうか?
山頂にはフォーカスできず、
クライマーとしての「スイッチ」が入らないなかで今回の遭難が起こってしまったように、
私は感じてならなかった。
私は、どうしても20年も前のチョ・オユー登山を思い出してしまう。
あの時は、日本人が誰も計画を知らない中での登山だった。
そして、ふたりで絶対に登りきってやろうと、純粋にそれだけを思っていた。
20年前のチョ・オユーと、今回のK2西壁は、難易度が全く違うだけではなかった。
遠征を取り巻く様々なものとの関係性や、山の中での心理状態も全然違っていたのだろう。
今回は、自然の脅威だけではなく、
人間側のさまざまな要素も絡み合い、
重層的な原因で遭難がおきてしまったとしか私には考えらない。
平出と中島は自然側だけでなく、
人間側のリスクをも受け入れる覚悟のうえで、
冒険への情熱の発露としてK2西壁へ向かったのだと思う。
それでも・・・
私は平出とのチョ・オユーを思い出してしまう。
ああいう誰も知らない、自分たちだけの完結型の登山だけでも十分良かったんじゃないかなとも思う。
挑戦とその表現は素晴らしいけれど、
そんなに頑張らなくてもよかったんじゃないか、と。
背負ったものをかなぐり捨てて、
ふたりは、帰ってくればよかったのだ。