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混沌からの表現・・・ふと見かけた論説文

教室に置いてある教材を何気なく手に取って開いてみることがあります。

理科の図表以外にも、歴史、家庭、情報など興味深い内容がたくさん!

そして、文章に目が留まって読み込んでしまうこともしばしば。

この前、積まれていた現代文の副教材を開いてみると、単元ごとにたくさんの論説文の抜粋が載せてありました。

読んでみると、ほんの一部だけどそれぞれ興味深い内容がいくつもありました。

それらの中に、「混沌からの表現」という題の文章があり、それに強く惹きつけられたんです!

自分が試験監督をしている時に目に留まった文章だったんですが、あとで一生懸命探して見つけました。

 

・・・ある一人の名人がいて、ぼろぼろのトラックをなんとか動かしてみせるというような技術は近代では必要などころか、あっては有害だと考えられています。

トラックというものは、いかなる運転手でも動くような機械でなくてはならないので、天才的な運転手がやっと動かせるトラックなどというものは、現代では有害なのです。

つまり、技術の修得が短期間の知識の修得になる一方、人間そのものが交換可能な知識の体系に変わったわけです。

ものに触れる体験というものは、たんなる知識の学習とは違って、人間が自分で意識できない自己の部分を豊かにします。

鉋で板を削って十年、二十年を過ごすということは、「職人気質」という、精神の部分を養うこともあります。

じつは、人間の個性とはそうした無意識なものの集積として生まれるものであり、この部分こそ個人の中で真に交換不可能な要素だというべきでしょう。

これに対して、現代の現実が情報化していくということは、現実のすべてが知識化していくことであり、その内部の意識を越えた部分が消滅しつつある、ということだといえるでしょう。

そして、現実とかかわる人間もまた情報化され、肉体も気質も持たない観念的な存在に変質しつつあるわけです。

有機的な統一を持った「私」としての人間が解体し、巨大で、しかし全体像の見えない、奇妙な機械の部分品になりつつあるのが現代だと見るべきでしょう。・・・

 

見つけた文章はここで終わっていたんですが、ここの部分が強く頭に焼き付いてしまいました。

この文章の続きが読みたい!!

「現代は、人間性が消失しつつある時代」

これで終わるなんて、絶対にイヤだ!!

 

書籍は高価だったので、Kindle版を購入して一生懸命読んでいるところです。

 山崎正和著 「混沌からの表現」